手向山八幡宮で転害会

東大寺における神仏習合

転害会で巫女舞の奉納

 東大寺境内にある手向山八幡宮の例大祭「転害会(てがいえ)」が10月5日、東大寺の僧を迎え古式豊かに斎行された。手掻会、碾磑会とも書かれてきた転害会は大分県の宇佐八幡宮から天平勝宝元年(749)、東大寺の大仏造立を助けるため来た八幡神を、東大寺の北西にある「転害門」で迎えた様子を再現する神事。「てがいもん」という名称は、この門を入った東にあった食堂に、水車で回して穀物を挽く中国式の石臼・碾磑(てんがい)があったからだと伝わる。唐から伝わった小麦がここで粉にされ、うどんがおとき(昼食)に使われたとの記録もある。平安時代の終わりに「手掻」となったのは、八幡神が協力するよう諸神を手招きする仕草が手で掻くようだったから。中世以降、「害を転じる」意味から「転害」になった。
 聖武天皇は天平15年(743)大仏建立の詔を発した。ささやかでも国民皆の力を結集して大仏を造ろうとの呼びかけは人々の心を動かし、260万人もの協力者が現れたと『東大寺上院修中過去帳』は記している。当時の人口の約半分が携わる国家プロジェクトであった。
 しかし、膨大な国費を投じれば、反対の声も高まりかねない。そんな時、宇佐の八幡神から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」という託宣が出されたのである。
 宇佐から神輿に乗ってやってきた八幡神が御旅所にしたのが転害門で、大勢の僧侶や役人たちが出迎えた。その後、聖武太上天皇、考謙天皇、光明皇太后が行幸した東大寺で、僧侶5000人の読経と呉楽、五節舞などの法要が営まれている。
 国宝の転害門は東大寺に残る最古の門で、京都からの東大寺参詣には、正門のように使われていた。度重なる戦火を潜り抜け、創建当初の寺の姿を残す貴重な伽藍で、神仏習合の名残から、寺の門でありながらしめ縄が張られている。
 八幡宮のご利益でもあろうか、朝鮮か中国から買うしかないと思われていた大仏に塗る金が、日本で初めて陸奥国で発見、献上されたのである。宇佐は銅の産地でもあり、銅精錬や鋳造の技術者集団もいたので、彼らも大仏造立に協力したに違いない。
 氏子や参拝者が集まり午前10時、転害会が始まった。本殿前の拝殿には、神鏡を載せた神輿「御鳳輦(ごほうれん)」が据えられていた。黒漆の骨組みが紫の錦に包まれ、天盤に金色の鳳凰が乗っている。「御」は乗られる神や天皇、「鳳」は雄の瑞鳥、「輦(てぐるま)」は肩にのせて運ぶ乗り物を意味する。雅楽が奏でられる中、供え物やお酒などが供えられた。
 本殿の御扉の前へ進んだ神職が、御扉に掛けられた御簾の裾を持ち上げ、「ウォー、ウォー、ウォー」と神の降臨を告げる警蹕(けいひつ)を発する。本殿の御扉は正面と左右に三箇所あり、中央、右、左の順に進められた。そして、神職に続いて僧も玉串を奉って二拝二拍手一拝、神仏習合の瞬間だ。その後、天平時代を思わせる衣装の巫女舞が奉納され、神事は終わった。
 例年は神事の後、転害門までの神輿の渡御と神事、僧の法会と田楽や舞楽の奉納が門前で行われるのだが、コロナ禍のため3年前からは八幡宮での神事のみ。同日、東大寺の勧進所八幡殿では、明治初年の神仏分離により八幡宮から東大寺に遷された国宝・僧形八幡神坐像と、江戸時代に大仏殿を復興した公慶上人の座像が特別公開されていた。