命のビザを繋いだ小辻節三
連載・京都宗教散歩(13)
ジャーナリスト 竹谷文男
第二次世界大戦の直前、リトアニアの首都カウナスに領事代理として赴任した杉原千畝(1900─1986年)が、1940年7月から9月にかけてナチスの迫害から逃れるユダヤ人6000人に日本の通過ビザを発給したことは良く知られている。この「命のビザ」を持ったユダヤ人はシベリア鉄道でソ連を横断しウラジオストクに、そこから日本海を越えて敦賀に、そしてユダヤ人コミュニティーがあった神戸にたどり着いた。しかし、彼等のビザでは日本国内の滞在日数は限られており、次の渡航先のビザを取得して出発することは、ほとんど不可能だった。もしも日本でビザ延長できなければ、ユダヤ人達はもと来た国に送り返され、アウシュビッツなどに強制収容される運命にあった。
この絶体絶命の状況に置かれたユダヤ人を救おうとした一人の日本人がいた。それは小辻節三(1899─1973年)、京都の旧・下鴨(しもがも)村(現・京都市左京区)出身のユダヤ研究家だった。杉原千畝の名はビザに署名されていたため、たとえ黙殺されたとしても記録には残った。しかし、小辻の場合は私人だったため今まであまり知られて来なかった。では、小辻はどの様にしてユダヤ人を助けたのだろうか。
小辻は、杉原が生まれる前年に旧・京都府愛宕(おたぎ)郡下鴨村に生まれた。村には下鴨神社(世界遺産、京都市左京区)があり、幼少時から神道に親しんだ。父は同神社の神職だったとの文献もあるが、下鴨神社によるとその記録はなく、下鴨村の村長だったという。小辻は聖書を独学で学び、明治学院大学の神学部に進んで牧師となり、1927年、28歳で米国に渡ってバークレーにあるパシフィック宗教大学で聖書およびユダヤ教を研究した。帰国後は銀座で「聖書原典研究所」を開き、聖書とユダヤ文化の啓蒙活動をしていた。その活動が時の松岡洋右(1880─1946年)南満洲鉄道株式会社(満鉄)総裁の目に留まり、小辻は満鉄総裁の顧問として満州に誘われた。それを受けて小辻は1938年から2年間、満州(現・中国東北部)で過ごすことになった。渡った先は大連(遼寧省)で、そこに満鉄本社および満鉄調査部があった。
当時満州にはナチスドイツの迫害によりヨーロッパから逃れてきたユダヤ人達が多く住んでいた。ユダヤ人達は1937年、ハルビン(現・黒竜江省都)で第1回極東ユダヤ人大会を開いた。小辻は1939年の第3回大会で日本代表として、イザヤ書の聖句を引用しながら古い時代のヘブライ語で演説し、最後に「ユダヤ民族がイスラエルの地に国を建てることを心から望む」と締めくくった。ヘブライ語で演説した小辻に対してユダヤ人達は総立ちになって、割れんばかりの拍手を送った。そして全世界のユダヤ人の間に、ヘブライ語を話す日本人が満州にいるとの情報が流れた。
しかし、松岡総裁は外務大臣に就任するために1940年7月、満鉄総裁を辞し、小辻もそのすぐ後に総裁顧問を辞して帰国、鎌倉に住んでいた。杉原ビザで続々とユダヤ人が神戸に逃れてきたのは丁度この頃だった。その中の一人が、ハルビンでの第3回極東ユダヤ人大会で小辻が演説したことを覚えていて、行き場のないユダヤ人を救うのは小辻しかいないと判断して連絡してきた。小辻は急遽、東京で松岡外相に会って相談したが、松岡は「ドイツは日本の同盟国なので、表だってユダヤ人を救うことは出来ない」と語った。しかし、個人としてなら話せると松岡はレストランに場所を移し「ビザ延長の権限は地方にある。地方自治体が延長を許可すれば外務省は目をつむろう」と示唆した。これは小辻にとっては天啓にも等しいものだった。
松岡は日独伊三国同盟を締結した時の外相であるが、若くして米国に留学、苦労して大学を出て洗礼を受けたクリスチャンで、実際は知米家かつ親米家だった。松岡は、三国同盟の立場からドイツの顔を立てて反ユダヤ政策には反対できないが、しかし対米戦争を回避する一つの方策としてユダヤ人を助けたかった。松岡が密かに語った示唆は、神戸で立ち往生していたユダヤ人の命を救う一筋の光だった。出エジプトの時にユダヤ人が、分かれた紅海の水の間の乾いた道を通ってエジプトから逃げ切ったように、日本に来たユダヤ人達もナチの手から逃げ切れると、小辻は確信した。
小辻はすぐさま、大阪に住んでいた実業家である実姉の夫を訪ね、「日本に滞在しているユダヤ人数千人の命を救うために資金を下さい」と頭を下げた。現在の金額にして約5000万円を受け取った小辻は、それを資金として兵庫県の幹部達を渉外し、ユダヤ人のビザ延長を認めさせることができた。また文化の違いによって滞在するユダヤ人と日本人との間に生じる様々な誤解や衝突を一つ一つ解決していった。こうして小辻やユダヤ人を支援する神戸の人々の努力によって、ほとんどのユダヤ人は終戦前に、米国、オーストラリア、上海などに無事、出発した。杉原千畝の英断によって発行された命のビザは、無駄になることなく小辻によって繋がれ、やがて世界中で実を結ぶことになる。
(2022年11月10日付 793号)