北野天満宮と浄土信仰
連載・神仏習合の日本宗教史(6)
宗教研究家 杉山正樹
怨霊思想と御霊信仰
奈良時代中期から平安時代末までの400年間は、貴族が政争に明け暮れ戦乱や地震が頻発、都を疫病が度々襲うなど、社会が不安と混乱に包まれた時代であった。末法思想が広がるのもこの頃である。「恨みを抱いて非業の死を遂げた霊は、怨霊となって現世に災禍をもたらす」という怨霊思想が活況を呈するのもこの時代であった。寺社の範疇に留まっていたそれまでの神仏習合は、この怨霊思想と結びつくことで、御霊信仰という新たな民間信仰を生み出していく。
民衆は当初、こうした災禍に対して呪術僧による加持祈祷、神祇奉幣などに頼っていたが、天変地異は一向に収まる気配がない。貞観5年(863)、朝廷は立ち上がり、疫病の流行や旱魃・虫害・暴風雨などの凶作の原因を、冤罪によって憤死した怨霊神のなす業とみて、彼らの霊を慰撫し供物を供える合同慰霊祭「御霊会」を平安京の神泉苑で催す。『三代実録』は、このとき慰和された霊が、早良親王(崇道天皇)・伊予親王・藤原吉子・橘逸勢・文屋宮田麻呂・藤原広嗣の「六所御霊」であると伝える。儀式では、僧侶が祭祀を司り、金光明経・般若心経を講じ、歌舞・雑芸などが演じられ厳かに執行された。
延喜3年(903)、藤原時平の讒言にあって大宰府に左遷された菅原道真公は、悲嘆のうちに配所で薨じた。その後、都で疫病の流行による病死者が多発、左遷に関与した高官も相次いで病死し、これが道真公の祟りだとする噂が民衆の間に広まる。道真公薨去の20年後、朝廷は官位を復し正二位を贈るが、異変はまだ収まらない。延長8年(930)には、宮中に落雷があり、関与する公家達が全員死傷するなど凄まじい異変の数々が起こった。世上は騒然となり、御霊祭祀が時代の強い要請となった。
天慶5年(942)、道真公の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)の夜夢に道真公が現われ「北野の右近馬場に社殿を造って自分を祀ってほしい」と託宣を降ろす。社殿を建てる資力がない文子は、自家の庭に小さな祠を設けて道真公を拝んでいたが、これが北野天満宮の前身神社(現在の文子天満宮)とされている。
その5年後、近江国の禰宜の幼児の太郎丸にも同様の託宣が降りた。北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮らが、この託宣を聞き及び、朝廷の強い要請もあり道真公を祀る社殿を造営、観音像二体(道真公は観音を信仰)を安置し朝日寺を神宮寺とした。この後、藤原師輔(時平の甥)によって壮大な社殿に改築され、現在の北野天満宮となる。
多治比氏は、龍雷神の穀霊信仰を始祖伝承として奉斎する古代の名族である。北野天満宮が、後年、道真公を「火雷天神」もしくは「天満大自在天神」として崇祀する神格は、多治比氏の氏族信仰と関係があるとされる。御霊信仰の顕著な特色は、信仰の対象が怨霊霊としての人神であり、御霊会の祭祀が仏式で執り行われるところにある。
清浄を旨とした神祇信仰に死穢の神霊化が取り込まれる時代的符号には、末法思想から引導された浄土信仰の影響が大で、この機縁により、念仏の広まりと相まって神仏習合が一般民衆に広く普及する爆発的契機となった。御霊信仰が執り行う壮大な仏教儀式は、冤罪の鎮魂と成仏を促したに違いない。道真公は、やがて天神信仰という形で広く庶民から帰依されるようになる。
月陽星の三光門
北野天満宮(京都市上京区)は、全国12000社の天満宮・天神社の総本社で神紋は「星梅鉢紋」。福岡の太宰府天満宮とともに、学問と技芸上達の崇敬の念が篤い。2万坪を誇る境内には、道真公ゆかりの梅50種1500本が植樹され、開苑の時期には境内一円で紅白の梅が咲き競う。
本殿と共に慶長12年(1607)の豊臣秀頼の造営による「三光門」と呼ばれる中門をくぐると雄大な桧皮葺屋根を戴く社殿である。道真公を祀る国宝の本殿と拝殿は、石の間という石畳の廊下で繋がり、神社建築の歴史を伝える貴重な遺構となっている。
ちなみに「三光」とは、月・太陽・星の三辰を意味するが、古代より三辰の運行が、天皇・国家・国民の平和と安寧にかかわるとして崇拝する信仰があった。ところが「三光門」には星の彫刻が見当たらない。これは平安京当初、大極殿が天満宮の南方位に位置し、帝が当宮を遥拝される際、中門の真上に北極星が瞬いていたためとされている。天神信仰として結実した北野天満宮は、絢爛豪華な桃山文化を当時のまま今に伝えている。
(2022年9月10日付 791号)