『夜明け前』島崎藤村(1872〜1943年)

連載・文学でたどる日本の近現代(28)
在米文芸評論家 伊藤武司

 

自然主義の作家
 明治5年、島崎藤村は長野県の宿場町馬籠(現・岐阜県中津市馬籠)に、本陣・庄屋・問屋を兼ねる旧家の末弟として生まれた。10歳で上京し、キリスト教系の明治学院(後の明治学院大学)に入学、17歳でキリスト教の洗礼を受けた。
 卒業後は明治女学校で教鞭をとりながら創作を始め、明治学院大学校歌も作詞している。文学的出発点は同人雑誌「文学界」創刊号の作品発表にある。同じころ「女学雑誌」にも詩を投稿。しかし、教え子と恋愛問題を起こして退職し、教会も退会。自殺を考えるほど傷心し、関西に漂白の旅に出ている。それらの背景は、仙台のキリスト教系の東北学院に単身赴任してからの詩作からうかがえる。
 藤村は詩の天分に恵まれ、詩歌や散文で己を告白する人であった。真価はロマン主義の処女作『若菜集』(明治30)で開花。第二詩集『一葉舟』(明治31)、27歳の第三詩集『夏草』で実証された。同世代の土井晩翠の男性的詩風に対し藤村の詩は女性的な優美さが特徴の、青春を謳歌しながら恋や人生や希望を詠い、かつ失恋の悲哀や悲愴を融けこませたロマンチシズムにあふれている。
 28歳で結婚、信州の小諸義塾へ赴任。『千曲川のスケッチ』『落梅集』はこのときに作られた。「青春の形見ともいふべき」全四部の詩集は明治30年から34年までに刊行された。旅情詩集『落梅集』には、「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なす繁縷(はこべ)は萌えず…」や「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の實一つ…」の歌曲にもなった二篇が所収されている。
 やがて作家に転身し『破戒』を発表するが、前年に三女が、出版年に次女と長女が亡くなり、4年後には妻の死に遭遇。以後、20年間、独り身を生きた藤村の心中はいたましい。
 『落梅集』あたりを分水嶺に後半生を小説に専念していく。ロマン主義を脱却し再出発を志した手始めの小説が『破戒』で、作家として成功をおさめた。瀬川丑松を主人公に、被差別民の悲惨な環境をえぐりだした社会派小説は、明治の文壇と社会に大きな衝撃を与えた。その後、日本自然主義の先駆者としての独自の作風を前面に、長篇『春』『家』『新生』の三作にとりかかる。
 事実をそのまま描写する日本の自然主義文学は悲惨な内容がつきまとう。『家』は封建制の下、没落する「旧い家」島崎一族の崩壊の歴史である。家長中心の人間関係の変化など、前後13年間、各旧家の人物の死までを追う。『春』『家』『新生』はどれも自己と家族を描きながら、赤裸々に暴露・告白する自伝的な懺悔のストーリーである。
 藤村の血族は父親が狂死、姉が精神病を抱え、藤村も『夜明け前』の執筆中、躁鬱からくる発作にしばしば襲われている。後に妻となる雑誌編集者に「わたしの過去は惨憺たるものです」と自虐的な言葉を吐いている。大正2年から3年間パリで暮らし、自伝的小説は大正8年の長篇『桜の実の熟する時』へと続く。

下から見た幕末維新
 「木曽路はすべて山の中である」の有名な書きだしで始まる『夜明け前』は、フランスから帰国してから13年後、昭和4年から「中央公論」に連載された。時代背景は嘉永6年から明治19年の34年間で、近代日本文学史を代表する記念碑的長篇となった。総じて好評の中、創作のモチーフやテーマがどこにあるのかで見解が分かれた。維新動乱期の歴史小説、平田派の門人たちの復古の変転史、実父をモデルにした私小説、あるいは物語の流れに自身を見つめる自己省察的作品など…。
 第一部のあらましは、黒船の来航から安政の大地震、大政奉還から王政復古まで。小説の舞台は、木曽路の入口にある馬籠の宿で、藤村の実父・島崎正樹がモデルの主人公・青山半蔵が住み、藤村が生まれた地でもある。東山道ともいわれる木曽街道は、京都・大坂と江戸を結ぶ街道で東海道につぐ要路。シカやイノシシの棲む山奥の美しい自然描写、芋焼餅、寝覚の蕎麦、御幣餅、ねぶ茶、芋粥、魚田などの郷土の風物や紀行文的な情景描写が点在する。
 街道筋を往来する人々は様々で、黒船騒ぎからは寺社奉行、役人、早飛脚、諸大名の通行、江戸藩邸への大筒の移送、新任の長崎奉行の一行などあわただしい。やがて井伊大老暗殺、和宮降嫁、生麦事件、薩英戦争、西下する尊攘の水戸浪士、さらに大政奉還、官軍の東征と幕末のめまぐるしい縮図が馬籠の宿に展開される。お民との祝言の宴を控えた間際、「黒船は、實にこの半蔵の前にあらわれて来たのである」。
 青山家の跡継ぎの半蔵は、若い時分から平田篤胤に酔心し、村の子供たちに塾で読み書きを教えていた。南伊那は国学の盛んな土地柄で、同門の士も多い。幕府の改革が断行され「近代化は、後世を待つまでもなく、既にその時に始まつて来た」。文久3年、「時局の中心は最早江戸を去つて、京都に移りつゝあるやうに見え」た。半蔵はそのことを「自分が奔走する街道の上に讀んだ」。将軍家茂の上洛、京をめざす新選組の大部隊の到着。殺気を帯びた攘夷の叫び声。「この國は果して奈何なるだらう。明日は。明後日は」、「心が騒いで仕方がない」半蔵である。
 慶応2年、徳川慶喜が将軍になったが、第二次長州征伐の終息は見えず「王政復古を求める聲は」巷にさかまき、「改革は近い。その考へが彼を休ませなかった」。
 主人公の生き方が明確になるのが後編。新政府によって王政復古の新国家の理想がなるとの希望をもった半蔵は、平田派の友人たちと交流する。御一新の方針で関所や代官所、本陣、庄屋、問屋が廃止され、江戸が東京に変わり、藩籍奉還され、西欧近代化の波頭が「上にも下にも押し寄せて来た」のだ。
 しかし、「明治御一新の理想と現實─この二つのものゝ複雑微妙な展きは決してさう順調に成し就げられて行つたものではなかつた」。半蔵個人をとりかこむ現実もそれを許さなかった。父親吉右衛門の死、木曽山林の伐採歎願書の棄却、娘お粂の自殺未遂。半蔵は東京での教部省の仕事を投げ出し、理想が次々と崩れてゆくのに耐えきれず、行幸途中の帝へ直訴まがいの挙にでて逮捕され、最後には座敷牢に幽閉され狂い死にしてしまう。
 幕末維新を題材にした創作には、大佛次郎の『天皇の世紀』や安岡章太郎の『流離譚』、司馬遼太郎の『坂の上の雲』などがある。いずれも基本的に上から下を見る歴史観だが、『夜明け前』の史観は対照的だ。一地方の庶民の、下から描き上げた叙述であることは明らかで、藤村は「草叢の中」からの努力をストーリーにしたと証言している。国学者の父・正樹は、平田派の理想を掲げる下からの推進者で、半蔵は、維新動乱の「この世の戦ひに」燃えつきのみこまれた庶民の一人だった。

日本ペンクラブ初代会長に
 精神科医で作家の加賀乙彦は「心の底に眠っている故郷を暖かくゆり起こされる」と評する。「木曽路の馬籠は…それは日本文学が長い間描き続けてきた故郷を藤村風に普遍化した場所」であり、「木曽路の風物に始まって、そこの土の匂いと音で終わるこの長編小説こそ、もっとも日本的な、それ故に世界に誇りうる作品と言える」と称える。
 若い時の躓きやその後の不祥事のゆえに、藤村の人生行路はきわめて慎重、地味で用心深い寡黙な歩みになったようだ。亀井勝一郎は、主人公が座敷牢で狂死する結末を踏まえ、その陰鬱な重苦しさを「一種の鎮魂歌を奏でた」とし、青春期からの詩や散文は「独特な沈黙の上に成立したもので…自己形成におけるこれは見のがしえない特徴だと思ふ」と述べる。
 盟友・徳田秋声は『「夜明け前」読後の印象』で、「主人公半蔵は既に藤村氏の前身であり、藤村氏の生活は即ち柱屈された半蔵の霊の発展であり、藤村氏の文学の本質も其の伝統に負ふことが少なくないと思はれる…私は藤村氏が自身の心に体に父の生活をしみじみと感じてゐることが、抑もこの作品の生まれなければならなかった所以だと考へる」と核心をついて読み解く。
 藤村は少年期に上京して都会的な生き方をし、幾星霜の末、出生の馬籠に望郷の想いを募らせ、幕末維新の歴史的変革期に身をおいた肉親の生き方に熱い視線を注いだ。「終の章」の父の痛ましい死は、疾風怒涛の激流の犠牲者であった、といいたげである。
 『夜明け前』の出版祝賀会に参席した広津和郎は、『藤村覚え書』で、「書きたいものをみんな書いてしまつたと静かに云ひ切れる作家」だと感嘆する。その後、藤村は昭和4年、日本ペンクラブの設立に加わり、初代会長を務め、夫人同伴でアルゼンチンで開催の国際ペンクラブ大会に参加している。
 封建制の色濃い地方で生まれた藤村は、信州人意識の強い人であった。旧家の伝統を背負うことを運命とし、世俗のしがらみに翻弄されながらも、一歩ずつ前進をあきらめなかった一生は、自己模索と自己救済の歩みといえるだろう。それらを展示する藤村記念館は、日本遺産に認定された馬籠の藤村宅跡と小諸城址・懐古園内の二か所にある。
(2022年6月10日付 788号)