東大寺における神仏習合

2022年6月10日付 788号

 鎌倉に初めて武士の都を造った源頼朝は、その中心に鶴岡八幡宮を迎えた。同宮は、河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役の戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺を鎌倉の由比郷鶴岡(由比ヶ浜)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。
 3代目の源義家が修復した社殿を、現在の地に遷した頼朝は、その後、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制に整え、若宮からではなく、改めて京の石清水八幡宮護国寺から八幡神を勧請した。これは政治の中心である都の守護として、京と同じ精神的構造であることを明確に示すためであろう。

八幡神と仏教
 頼朝は朝廷に対抗しながら、鎌倉に腰を据え、武士の棟梁としての権威と権力を蓄えたのだが、日本という国のかたちにおける朝廷の存在には深く敬意を払っていた。これは、北条政権になってから、源頼朝以来の先例や道理をまとめ、3代執権北条泰時(大河ドラマの主人公2代執権義時の長男)が最初の武士法として制定した御成敗式目において、第一に神社を、第二に寺院を大切にすることを記したことからも明確である。平家軍によって焼失した東大寺大仏殿の再建に応じたのも、国家守護の使命を持つ頼朝にとっては当然であった。
 日本における仏教立国は、聖武天皇による大仏造立をもって概成したとされる。国力をかけた大工事に、助力を申し出たのが八幡大神を主祭神とする宇佐神宮で、その後、東大寺の鎮守神として勧請されたのが、大仏殿近くの手向山八幡宮である。
 八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊で、比売神と神功皇后(応神天皇の母)を合わせ八幡三神とされる。八幡神は新羅からの渡来神が豊前(大分)の大神氏(おおがし)らの守護神と習合したもので、銅の技術を持つ集団の守護神であったとされる。近くの香春岳(かわらだけ)では奈良時代に銅鉱石の採掘が行われており、大仏のための大量の銅は主に長門(山口)から運ばれていた。宇佐神宮の助力とは具体的には銅の技術者集団の協力を意味したのであろう。実に銅の道は八幡神の道であった。
 宇佐神宮と聖武天皇とのかかわりは、これをさかのぼる。725年に宇佐宮を現在の小倉山に移した際、法蓮という雑蜜僧の働きで境内に弥勒禅院が建立され、738年には聖武天皇の援助を受け豪華な金堂・講堂が加えられている。八幡神が八幡大菩薩と呼ばれるようになる、神仏習合の典型である。
 その宇佐神宮を、裏鬼門の守護として京の南西にある男山に勧請したのも、大安寺の僧行教という空海の弟子である。やがて、王城守護鎮護の神、王権・水運の神として朝廷から崇敬されるようになり、伊勢神宮と並び「二所宗廟」と称されるようになった。石清水八幡宮護国寺と称するようになるのは、神仏習合が進んだ平安寺時代からである。応神天皇由来の武の神であることから、源頼義により源氏の氏神とされ、武士の世になると鎌倉から全国に拡がっていった。
 こうした歴史を見ると、鎮護国家という意味で神道と仏教は、日本の国づくりを宗教面から補完し合いながら、支えてきたと言えよう。東日本大震災の直後、東大寺と鶴岡八幡宮で合同の慰霊祭が営まれたのも、そうした歴史を踏まえている。

共存世界の精神として
 八幡神・八幡大菩薩を象徴するのが僧形八幡神像である。百済の聖明王から贈られた金銅仏に欽明天皇が感銘して以来、仏教が日本に受容される過程で生まれてきている。仏教はインドや中国、朝鮮で国づくりの一つの理念となったが、東の果ての日本でこそ、その本領を発揮したと言えよう。日本的風土で花開いたと言ってもいい。
 今の時代に神仏習合に注目するのは、人々の深層心理に宿る心性と他者、他民族、他国との公正・対等な交流、調和ある相互依存の世界を築く上で、民族固有の自然宗教と世界的な普遍宗教との融合が重要だと考えるからである。先人の努力でこれに成功した歴史に学び、宝として守り、かつ発展させ、さらには共存世界の精神として世界に発信できるのではないか。ウクライナ戦争の終結が見通せず悲しい今、私たち自身の生き方にも重ねながら、そう思う。