蹴鞠と精霊とボーイスカウト

連載・京都宗教散歩(4)
ジャーナリスト・竹谷文男

下鴨神社での蹴鞠始め

 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ、下鴨神社)の蹴鞠始めが1月4日午後、行われた。平安時代のあでやかな蹴鞠衣装に身を包み、鹿革で作った鞠を地に落とさないよう、7人前後で蹴り上げる。上がる高さは約4・5メートルが良いとされ、落とさずに続けられる回数を競う。
 「アリ」「ヤァ」「オウ」のかけ声とともに、3度目に相手に蹴り渡す。右足だけ使い、親指の付け根で蹴り上げる。木々の緑と朱塗りの門の前で平安時代の装束が、すばやく、ある時はゆったりと動く。鞠を蹴り上げる動作が優美に見えるのは、ヒザを伸ばしたまま一定の高さを目指して蹴り上げるからだろう。相手と競うスポーツではないが思いのほか運動量はあり、15分くらいで一座は終わる。
 「まり場」は一辺15メートルの正方形、四隅に青竹を立て(切立)。その外側には主に松などの生木を植える(元木)。鞠の直径は約20センチ、重さは約150グラム。衣装は鞠装束と呼ばれ、烏帽子(えぼし)、鞠水干(まりすいかん)、鞠袴、鞠靴を履き、手には鞠扇を持つ。
 まず同神社の新木直人宮司、蹴鞠保存会の粟田口幹男会長以下20余名が本殿で奉告祭を行い、鞠庭に出る。そして、「解き鞠の儀」を行い、松枝に挟んだ鞠を解き蹴鞠を始めた。
 蹴鞠はもともと中国、殷の時代の雨乞いの儀式だった。天地の調和が崩れて日照りが続くので、その天地の間に介在する空間に鞠を蹴り上げて留めることによって、天地の調和を取り戻そうとしたらしい。日本へは飛鳥時代に伝わった。『日本書紀』では皇極3年(644)、奈良法興寺の蹴鞠で、中大兄皇子が藤原鎌足と出会い、大化の改新のきっかけとなった記述が初見である。
 日本に来て蹴鞠は独自の発展を遂げた。蹴鞠の名人は「名足」と呼ばれ、平安後期の藤原成通(なりみち)が特に有名である。成通は、蹴鞠をしながら清水の舞台の欄干の上を往復したという。
 成通は蹴鞠上達のために千日にわたって毎日、蹴鞠の練習を行う誓いを立てた。誓いが成就したその日の夜、成通の前に3匹の人面で猿のような姿をした「鞠の精霊」が現れた。名を、夏安林(アリ)、春陽花(ヤァ)、桃園(オウ)と名乗った。成通は驚きつつも、しかし平静を装いながら鞠の精は普段どこに居るのか尋ねた。3人の精は普段は林の中の木々に居るが、蹴鞠が始まると植えられた元木を伝って鞠の中に入ってくる、そして鞠の中で鞠が天地の中間のほどよい位置でリズミカルに往復するようにしているのだと言う。
 彼らは蹴鞠について「蹴鞠が盛んになれば国も栄え、良い人が政治を執り、幸せがもたらされ、人々は健康になる」と答えた。また死後の世界にまで良い影響を与える、と。「人の心に浮かぶ思いのほとんどは罪の種となるが、蹴鞠をしていればただ鞠のことだけを考え、自然に心の罪がなくなっていく」ので、「輪廻転生にも良い影響をもたらす」。そして、彼らは成通を守り、ますます蹴鞠の道に上達することを願うと言って、消えていった。この3人の鞠の精の名前は、蹴る時の掛声として使われ、3人は蹴鞠の守護神として京都の白峯神宮内に祭られている。
 下鴨神社の森は「糺(ただす)の森」と呼ばれる。成通の体験がまことであれば、この森の木々の中にも蹴鞠の精は住んでいる。糺の森は、市内を流れる鴨川の二つの支流、加茂川と高野川が合流する台地上にあって、地下には豊かな伏流水が流れる。市内にありながらも縄文からの太古の原生林の姿を保っている。下鴨神社の「蹴鞠初め」が特に有名なのは、蹴鞠の精が林のあちこちに潜んでいるかのような臨在感を、人々に与えるからであろう。この森はまた、蠱惑(こわく)の森でもある。ならば、現代でもこの森の木々に潜む精霊たちは私たちの前に現れるのだろうか?

ボーイスカウトの仮装行列「桃太郎の鬼退治」(下鴨神社の京都キャンポリー、1960年)

 太古の原生林であるこの森では半世紀以上前には、京都市内のボーイスカウトたちがそこかしこにテントを張って、夏休みのキャンプ大会(京都キャンポリー)を行った。京都中から集まったスカウトたちはその夜、大鳥居と拝殿の間にある境内の広場で、鉄道の枕木を井げたに組み上げたキャンプファイアーを楽しんだ。高く燃え上がった炎は森の木々を照らし、少年たちの歌声がこだました。今では世界遺産となっている緑豊かな境内で、思えば考えられないような贅沢な、幸せなキャンプファイヤーだった。
 この時、木々の精霊たちは少年たちと共に歌い、舞い、林間に点在するテントの中で至福の眠りについたのだろうか。そして最終日の解団式で、スカウト達が「弥栄(いやさか)!」と叫んで投げ上げる帽子、その帽子に乗って舞い上がり、再び森の木々の中に消えて行ったのだろうか。
(2022年2月10日付 784号)