『暗夜行路』志賀直哉(1883〜1971年)
連載・文学でたどる日本の近現代(24)
在米文芸評論家 伊藤武司
白樺派を牽引
志賀直哉は大正時代白樺派の芸術・文芸運動を牽引した小説家である。明治16年宮城県石巻町に生まれ、2歳の時に東京へ一家で引っ越した。武家の出である祖父や祖母に愛されて育ち、学習院中等科に入ると文章を書き始めた。水泳やボート、自転車などスポーツで身体を鍛え、学習院高等科を卒業し東京帝国大学に入学。その間、友人たちと同人誌「白樺」を創刊する。
日本の小説には外国にはない「私小説」というスタイルがある。その系譜は明治から今日に至るまですたれることなく、田山花袋の『蒲団』、梶井基次郎の『檸檬』、太宰治の『人間失格』、檀一雄の『家宅の人』、梅崎春生の『桜島』、島尾敏雄の『死の棘』、大江健三郎の『個人的な体験』などと続く。その中でも志賀は達人で、自身の生い立ち、家族、友人、各地で出会った人びとや自然を、視覚と心でとらえる繊細な写生を得意とした。文体は簡潔・明瞭で、形容詞などの装飾を極力そぎ落とした短い文節をつづり、典型的な短篇小説家タイプといえる。
戦前、志賀は短篇『小僧の神様』をもじって「小説の神様」と称され、一流作家の座を占めた。問題は、作家の性格を生き写したかのような人物像が登場することである。つまり作者と主人公とがかなり重なることから、作品の評価が作家本人の人間像抜きには成り立たないのだ。結局、「氏の作品を語る事は、氏の血脈の透けて見える額を、個性的な眉を、端正な唇を語る事」であり、「製作する事は、実生活の一部」となった、と敬意をもってコメントした小林秀雄の言辞が正鵠を得ていよう。
背が高く、物静か、頑丈で端正な風貌で、芯の強い、厳しい性格がイメージされる。事実、強靭な自我が張り出し、頑固でわがままな面があった。創作に没頭すると「面会謝絶」で、家族は腫れものに触るように気をつかった。反面、慕ってくる作家志望の若者たちには寛大で、『大津順吉』に感動した尾崎一雄は、師事しながら芥川賞をとった。思想を異にするプロレタリア作家小林多喜二も、奈良の志賀邸を訪れ懇談している。
志賀の本領は明晰なリアリズム。天性的な感受性による単純化と清明さをつきつめた文章は、シンプルで美しさが冴えわたり、水墨画の趣きがある。広津和郎は「渋い、底光りのした技巧」と形容した。特異な記憶力と鋭敏な観察眼による創作は読者を惹きつけ、志賀美学の文体は物書きの手本とされた。
処女作は「白樺」創刊号に発表した『網走まで』。北の地へむかう汽車の中、どこか薄幸の翳りのある母子に主人公の情感を重ねた小説。大正元年、青春文学としての『大津順吉』が雑誌「中央公論」に掲載され、職業作家の道を踏みだす。冷徹な鑑識眼でハチやエモリやネズミの死を、己の生と比べた傑作『城の崎にて』。ユーモラスな面を見せた物語性のある『赤西蠣太』は映画化された。清冽な感動を呼ぶ『和解』は、長年の父と子の不和・葛藤が氷解する中編私小説。
ユーモアとペーソスがアクセントの代表作『小僧の神様』は教科書に採録された。『清兵衛と瓢箪』は、瓢箪の蒐集に情熱を注ぐ少年にまつわる教訓話。支那の奇術師の殺人事件をあつかった『范の犯罪』。『焚火』は、仲間たちと焚火をかこみながら過ぎし日を回想する話。『雨蛙』は平安に過ごす夫婦をみまった出来事で、ミステリアスな緊張感がただよう一作。
『豊年虫』では、温泉宿で原稿を書く主人公が、蜻蛉の柱が雪のように立つ珍現象に見惚れ、土地の人とのどやかな交歓風景。『万暦赤絵』は、明の万暦年間の陶磁器と子犬の話で、夫婦・子供たちとの話のやりとりにおかしみがある。
唯一の長編
一番注目され考証されてきたのが唯一の長篇作品『暗夜行路』である。男性的な作家の烈しさで、主人公・時任謙作の心の内面の相克と伸長を見定めながら、救いにたどり着くまでの心理小説。志賀は「事件の外的な発展」をもくろんだものではないという。
創作に長い年月を費やし、一気に筆を進めるタイプではなかった。『暗夜行路』は38歳の大正元年から昭和12年まで、26年を書き継いだ。私小説が流行した大正時代、本作は若い作家たちから称賛された。完成前に神経衰弱に罹り、持病も再発、気力が喪失し、最後に意を決したのは昭和11年末頃で、翌年3月まで4か月をかけて最終稿を書き終えた時54歳になっていた。複雑なストーリーには著者の人生が凝縮されている。理解を阻むのは、いくつもの先行作品と無数の草稿メモの故で、内容はそれぞれ微妙に異なっている。
文壇の評価は二分された。圧倒的な敗北感を味わったのは芥川龍之介、『作家の顔』で恋愛小説だと言い切る小林秀雄、劇作家・三好十郎は一級品と評し、菊池寛、広津和郎、谷川徹三、本多秋五、阿川弘之、高橋英夫、大江健三郎も支持派。対照的に中野重治はできそこないだとし、愛読者の正宗白鳥も筆致が変わったとし、中村光夫も否定的。志賀から文章の書き方を揶揄された太宰は、『如是我聞』で感情も顕わに「アマチュア」「ハッタリ」と反発している。ちなみに志賀は己の作品があれこれ批判されるのを嫌った。
否定派の言は、主人公は職業作家をめざしているようであるが、年齢と外見とが不調和だという。時代的・社会的に整合性がなく、内容が抽象的過ぎて分かりずらい。最終部分の視点が変化している等々、いずれももっともだが、志賀の体験や白樺的自我拡張の精神が物語の内部に濃厚に根付き、近代日本文学の代表作であることに疑いの余地はない。
内心の転換点として注目されるのが明治45年3月7日の日記で、気ままに過ごす様が記録されている。白樺の同人や知人との交遊から、歌舞伎、寄席、落語、狂言、芝居、音楽会、活動写真、動物園など遊行する。ゴーギャン、セザンヌ、レンブラントなどの鑑賞は創作の題材探しで、その間に女遊びをし、老年期の高潔な生き方とは異なる。日常的な出来事に「不快」「愉快」「腹が立つ」など好悪の感情を顕わにし、突飛に、自分もルソーくらい偉く、「自分は自分にあるものを生涯かかって掘り出せばいいのだ」と表白する。
13日には、「固定した宗教、道徳、主義、主張を自分は嫌いである」と断言し、「自分の自由を得る為には他人をかへりみまい」と自我の肯定を謳う。わずか1年前の、孤独が一番だとうそぶいていた人かと驚かされる。この激変を岐路に、盟友・武者小路実篤と自我の拡張と自己肯定に絶大な信頼をおき、白樺派の道を踏み始めるのである。
大正元年に筆を執った『暗夜行路』の主人公は志賀にそっくり。少なくともその前編は、自負心の顕わな日記のままの言動で、実体験の数々を主人公の人格に象嵌している。
さて、志賀の人生で重要な意味をもつのが内村鑑三との出会いで、7年間、内村の薫陶を受け、伊藤整によると「人生に対して肯定的傾向を抱いた」。しかし、毎日曜、聖書講義を受講しながら信仰を深めることはなく、感銘したのは内村の性格や風貌であったという。25歳で内村の許を去り、自己葛藤から解き放たれると、自由奔放な生き方と創作を本格化させる。58歳の回顧録『内村鑑三先生の憶い出』で、生涯の師は内村一人と明言し、棄教後も尊敬し続けているのが興味深い。
「困窮の境遇に身をおくことなく育った」ことが作家的自意識の形成を促したが、内村に師事した足跡がより実質的な源流と言えよう。膨大な短編群や主我的な性質は内村と無縁とは思えない。28歳の短編『濁った頭』は、姦淫の誘惑に溺れて精神に異常をきたす青年の告白で、内村に擬した牧師が登場する。翌年の私小説『大津順吉』でも主人公は牧師の「U先生」に私淑している。
典型的な私小説
『暗夜行路』の舞台は、明治43年から大正6年頃までの東京。赤坂の家に住みながら主人公は銀座、上野、日本橋、京橋、築地、深川と遊びまわる。移動手段は徒歩か市電、人力車で、洋書店「丸善」や古本屋へ寄り、「西洋料理屋」や「天ぷら屋」、小料理屋で食事を摂り、「自動電話」をかけたりする都会人である。友人らと吉原の遊郭ヘくりだし、夜が更けるまで酒を飲みながら芸者たちと打ち興じる。漱石の『三四郎』の三四郎や鴎外の『青年』の純一が田舎者であるのと対照的で、富裕な時任家の息子の経済感覚は疎く、気ままに日々を送っている。それでいて神経質な心中には「不愉快」や「苛々」「淋し」さの感情が終始湧き起こる。
明治30年、16〜17歳の志賀は、実業家として財をなした父の下、麻布の豪邸に暮らしていた。読書が好きで、友人たちと頻繁に文通した。ところが、ストーリーの雰囲気は重苦しく、その要因として複雑な人間関係が浮かんでくる。心服してきた祖父とは異なり、父親との関係はかなり冷たく、家族との間に隙間があった。家柄と資産管理に執着する頑固な父を嫌い、家に無関心で、自由と文芸を愛した。『暗夜行路』は事実のままではないにせよ、プライベートな出来事をかなりの部分模写した私小説である。
父子相克が決定的になるのは、内村の足尾鉱毒批判に同調してからで、結婚問題が輪をかけた。志賀は強情、神経質で怒りっぽく、発作的に文士を辞めると言い出したり、妻からの手紙を破り捨てるなどかなり身勝手である。日記や手紙などにも「愉快」「快感」などを連発し、己に正直で嘘のない生き方を押し通していた。
キリスト教矯風会が廃娼廓運動を推進しているさ中、主人公は廓に通い「益々淫蕩の深みへ堕として行った」。常識からかけ離れ、漂白する孤独な放浪者のようだが、自我の拡充をめざし、「彼の空虚を」充たそうと突き進む。思いたって逃げるように尾道へ旅立ち、借家で創作を試みるが、すぐ飽きて帰京すると、郊外へ移る。これは弱さからの行動ではなく、繊細で強い性格による錯綜した自虐行為であり、その底層には自我をコントロールできない焦燥感がある。母の不義による「不純な出生」という負い目も心を重くしていた。
その迷走癖は、生活感のない「人と人との関係に疲れ切って了つた」ストレスのはけ口と解釈できる。温厚で良き理解者・兄の信行が明るさを示すが、前半の中枢は、亡き母に代わり謙作の身辺の世話をするお栄など女性たちとの関係が主で、母性的な愛情に飢える心理が潜在している。再び移り住んだ京都で「母親とよく似」た直子と出会い結婚するものの、妻の不貞を知り再び苦悩にさいなまれる。
大自然による救済
本作に対し欧米の日本文学研究者たちは、自己賛歌とナルシシズムに占められ、全てを配下におこうとする「志賀教」や、女性に対する暴力的蔑視には承服できないという。別の評では、近代的自我の理念に則したトーマス・マンの『魔の山』やヘルマン・ヘッセの『車輪の下』などの教養小説には属さないという。同じ時期の『チボー家の人びと』が、戦争の惨禍をくぐりぬける一家の壮大な物語であるのに比べ、歴史的な自覚はあいまいで、日本的な集団社会での狭隘な自我でしかないとする。欧米人には、多様な女性たちが主人公の周辺で難しい役を演じることも珍しいらしい。志賀の自我は利己的というのが欧米識者の結論で、師の内村とは異なり、人間関係の横の広がりは弱く、神との縦の結びつきもない。
もっとも、自堕落な遊蕩は主人公の本心ではない。終結部、鳥取の伯耆大山の夜明けのシーンは目を見張るものがある。それは20年以上前の記憶から再現されたもので、登山中、急病になった謙作は、生死の境で「山頂の彼方から湧上るやうに橙色の曙光が昇つて来」る光景に魅せられる。呪われた出生を背負う自我が、大自然と融和しながら「溶けて行く」のであった。深夜、朦朧とした意識で寺に戻るが、容態は深刻で、翌朝、京都からかけつけた直子との再会で長篇は終わる。作品論で問題とされてきた視点の変化である。
夫の「穏やかな顔」を見つめながら、「直子は『助かるにしろ、助からぬにしろ、兎に角、自分は此の人を離れず、何所までも此の人に随いて行くのだ』というような事をしきりに思い続けた」。印象的な一節である。
後篇では、夢の中で神社を眺める場面があったり、大社や古寺をめぐり、仏画、仏典、天理教や高僧伝に触れ、禅に及び、一種の東洋的な平安を仄めかしている。瀕死の謙作に大自然のたたずまいを配することで、救済を図った。
武者小路実篤と並び白樺派のリーダーとなった志賀直哉。同人たちは富裕な家庭環境に育ち、大正のトルストイブームに乗り、理想主義と人類平和を標榜した。実篤は「新しき村」を創設し、同人誌「白樺」は関東大震災まで続いた。民芸運動の柳宗悦や陶芸家のバーナード・リーチ、洋画家の梅原龍三郎らとは美意識を共有した。尾道や松江、我孫子、赤城山、鎌倉、京都、奈良、熱海などに20回以上引っ越し、中国、ヨーロッパを訪れている。
家庭では明治の男らしくふるまい、子供の躾には厳しかった。88歳で亡くなる20年前から悠々自適の暮らしで、創作は減ったが文壇の大御所とされた。謹厳なライフスタイルを守り、気さくで飾らない態度から多くの友人と交遊。1年の約束で日本ペンクラブ会長に就き、昭和24年、谷崎潤一郎と共に文化勲章を受章。儀式や大会・会合を嫌い、文学碑などにも興味を示さない。迷信や占いを排して無宗教を貫き、葬儀は簡素であった。
2月1日、石原慎太郎氏が亡くなりました。参議院選挙に出馬した石原氏の講演会に行ったことがあり、同じ日、杉並区では三派全学連の集会もありました。自作の曲「青年の樹」をバックに真っ白なスーツ姿で登壇した姿が印象的でした。
(2022年2月10日付 784号)