『婉という女』大原富枝(1912〜2000年)
文学でたどる日本の近現代(22)
在米文芸評論家 伊藤武司
土佐藩・野中兼山の娘
幕末の土佐藩といえば坂本竜馬や中岡慎太郎、武市半平太等が思い浮かぶ。明治に入ってからも高知からは板垣退助、後藤象二郎、中江兆民など幾多の歴史的人物を輩出した。女流作家・大原富枝は高知県中央部吉野村(現・本山町)で明治45年に誕生した。父親は小学校校長。10歳のころ父親の蔵書から古典文学をひっぱりだし読み始めている。文芸雑誌に掲載された著者25歳の『祝出征』が昭和13年の芥川賞候補となって以降、生涯に数々の文学賞をとった。大原の文学的作風は歴史小説や評伝が主である。
そうした創作群で代表的な名作が歴史小説『婉という女』と『於雪─土佐一条家の崩壊』の二作。『婉という女』は、260年の長きにわたった江戸時代前期、四国・土佐藩の中枢部・奉行として藩政改革を果敢に断行した儒家・野中兼山とその一族の物語である。発表後大きな反響をよび、劇団で上演され映画化、英語、ロシア語、ポーランド語などに翻訳出版された。
主人公は、藩政政治の政争のはざまで犠牲となり数奇な運命をたどることになった野中婉である。藩主から奉行職の要職に任ぜられた兼山は、藩領内の治水工事、新田開発など多方面での改革を推進。「土佐二十四万石は実収三十万石」との噂は兼山の優れた実力と器量が招いたといわれる。
しかしながら、あまりの成功をねたむ反対派が台頭し弾劾される。失脚の一因として、藩財政の問題、領民に対する過酷な年貢の取り立てや生命を削る苦役、華美贅沢の禁止などがあり、それ故に、他国へ逃亡する領民もいた。兼山は失脚し隠居、49歳で急逝。やがて一族の悲劇が始まる。
近代民主主義の土壌では個を主体とする原理が、封建制の支配する世界では通用しない。江戸の時世をつうじ武家の不祥事は一族郎党が処罰の対象になった。寛政3(1663)年、「謀叛人」の血族への陰惨な追罰が待っていた。
一族は人里から遠く離れた宿毛に配流され、領地は没収、野中家は取り潰された。「土佐の西の果て」の幽閉の「周りを高堀と竹矢来にかこまれ」た狭い庭は、「茅葺の孤屋」と座敷牢の小部屋と「その外には警備の番士の詰めている小屋」のある、「他人との面会」が遮断された「門外一歩を禁じ」られた場。野中一族の悲劇をとりあげたこの物語は、一族がたどった数奇な人生を、彼女の目をとおして描写した凄絶な内容である。4歳の時に獄舎にとらわれた末娘の婉は、獄中生活をつづけながらも美しく成長していった。
長い長い歳月が過ぎ去っていった。獄での日々は泣き崩れることすらゆるされない哀しみの行程であった。彼女の心中は「野中婉、四歳にして獄舎に囚われ、九十歳の生涯をここに置く。もしも墓碑銘を刻むことが許されたら、そう記して貰おう。ここに生くではなく、置くと。わたしは遂に生きたことはなかったのだ」という乾ききった感情で占められるようになった。
「幽獄」の間に死が次々に訪れた。祖母の死、姉の死、長兄、次兄、そして次弟と……。あたかも「死ぬためにだけ生まれてきたような人たちであった」。最後の男・実弟が死亡することでようやくのこと解放の時がくる。生き残った者たちは、婉と80を超えた母上、40をすぎた姉妹3人、乳母と女ばかりの6人。このとき婉は43歳、幽閉の40年間が、そのまま一人の人間の一生といえる時代のことである。放免の理由は、野中家に男の家系が絶えたことにあった。現藩政から受けた憎悪は、血の連鎖を途絶えさせるという残酷な刑罰であったのである。
牢獄生活は子供を産むというささやかな幸せを奪い、女としてあたりまえに生きてゆくことを許さない世界であった。他人との接触が遮断され、肉親の兄弟以外に異性というものをまったく知らないで婉は育ったのである。そうした真綿で首を絞められるような忍従の末に、初めて人間らしく生きられる道が開かれたわけである。
政治を見る女性の眼
読む者にとっては、著者が、この歴史小説をどこまで史実を手本としただろうかと思いめぐらすかもしれない。歴史的考証によると、野中一族に対する藩政の仕置きがきわめて峻厳であった事実が記録されている。すなわち、史実を基本に、一人の女性の悲惨な一生を女性の感性で凝視したことになる。
耐えがたい憂悶・寂寥感をひきずる薄幸の女性のストーリーを直視することは正直苦痛である。ページを繰りながら、ノーベル賞作家・ソルジェニーツィンの強制収容所の囚人たちの地獄の日々の『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日 』の記憶が蘇る。無情にも降りかかった悪夢、それを宿命ととらえ忍従する主人公は不憫というしかない。死の刑罰は悲劇であるが、生きながらえる処罰もまたそれにおとらず凄惨である。
一読して明らかなことは、著者は、残酷な刑の背後で実行される政治の世界を、女性の鑑識眼でもって凝視している。そして、いつの世にも為政者の政治的意向や権力の確執から、罪のない女子供ら社会的弱者が対象とされたり痛ましい事件にまきこまれる理不尽さを糾弾し、訴えているだろう。
22年の歳月が過ぎた時、高知の城下から30里の遠路をはるばると、一人の若者が思いがけず出現。一年後に長い手紙が届き、それから細々と文通がかわされた。重く暗い流れの物語の過程で、一筋の救いといえるのがこの箇所である。これまで「生きることの虚しさ」のみだった身が、「生きようと」意識しだしたのは、父兼山の業績を認める「外の世界」の未だ見ぬひとと知り合った「このときから」であった。婉は青年儒学者・谷泰山に思慕の念を温めながら、「そのひとのなかで生きはじめ」たのである。
しかし、放免後出会った泰山は、婉よりも年若いというのに顔色の冴えない貧弱な人物であったことが彼女をひどく狼狽させた。しかも再び土佐藩で政変が勃発。泰山自身が蟄居の刑をうけてしまう。彼女の人生は再び振り出しへもどった感があり、最後まで一緒であった乳母の死を看取った婉は、空漠とした悲運の中にただ独りきりとなってしまった。
さて読後感である。なんと寂しさと孤独感のつまった寒々しい物語であろうか、という印象がぬぐいきれない。影のような憂え・哀切感がとどまることなく全編におりて、呪われた運命を覆す機会もなく埋もれ木のように逝ってしまうようだ。
婉の歩みがどこまでが真実で虚構であるのかは問わない。素直な心で一個の女の哀しみに塗りかためられた40年に遭遇すれば、誰でも胸が詰まることだろう。そして憂愁なベールにつつまれた当小説の流れは、次の歴史小説『於雪─土佐一条家の崩壊』へとひきつがれてゆく。
高知に兼山記念碑
二作の共通項は女性が主人公。前者は野中一族の運命と共に歩む野中婉、後者は戦国乱世の名門土佐一条家の悲劇的崩壊を見とどける於雪である。二人とも大原の分身であることはまぎれもなく、婉のように於雪も御所の寵愛をうけながらその身は「囚われ人に似ていた」。著者の深層心理が二人の女に深く共鳴していることが推察できる。
『於雪』の一節に、「死よりも無残な生もあるのだ」との言葉に出会うと、作者は一体どのような人生をたどったのだろうかとめまいにも似た吐息が出てしまう。この自問は、彼女の過去が決して平らかとは言い難い内容を背負ってきたのではと痛感するからである。
作品群をつうじて考えてみよう。大原の『文学的個性の創造』によれば、創作を次のように区分している。郷土と縁のある素材をテーマにしたもの、歴史・王朝に関連した創作、そしてキリスト教的作品群という分類である。
著者は一人称の「私」で創作するスタイルを得意としていた。この一人称に文語文をさしはさむ創作となると、一段と輝きが増し加わる。歴史物『婉という女』『於雪』が典型で、その基底部に哀愁の忍の一文字が貼りつき、あたかも大原自身の真情が主人公に入りこみ融合した哀しくも美しい名文である。
作者の文学的世界は、生い育った心性と女性らしい繊細さと柔軟な感性の領域を広げながら同性に集中している。拾いあげれば短編集『亜紀子』『めぐりあい』評伝『梁川星巌・紅蘭』『建礼門院右京大夫』 『わたしの和泉式部』『大原富枝の平家物語』『今日ある命 小説・歌人三ヶ島葭子の生涯』『草を褥に─小説牧野富太郎』等。主人公はいずれも女性、あるいはそれに準ずる役割をあてがうことでストーリーが深化するのである。
著者の一生はなにかと病や人生の苦渋と因縁が少なくなかった。重度の肺炎に罹ったのが幼少の時。母とは10歳で死別。18歳で結核。入学した女子師範学校を中退。青春のさかんな時の発病は著者の心に深い打撃をあたえたことはいうまでもない。いつ治癒するともわからない闘病生活をよぎなくされたが、注視すべきは、死と隣り合わせの日々でも、少しずつ作品を書き続けていたことである。大原にとっては「作品を書くことと、生きることとの間に、いささかの距離もなく過ごして」いたのだった。
文芸評論家・平野謙の作品解説には、「ほとんど文学一途に、若いときから生きぬいてきた人のよう」で、「文学のために、すべてを犠牲にしても辞せぬ人のよう」だとある。幼い時、父に連れられて野中兼山の墓を訪れ、野中一族の悲劇の物語を聞かされて育った。婉は「お婉さま」と呼ぶほど身近な存在であった。
30代になり創作の資料をまとめ始め彼女の胸の中に、婉がはっきりと息づいていた。東京大空襲で九死に一生を得たのが33歳、その後35歳で再び病に倒れ43歳にも仰臥の生活。人生の内省を深める契機となった結実が、内省的『ストマイつんぼ─第7感界の囚人』。これは療養生活を巧みな筆法で活写した45歳の自己省察の中編小説。
2年後、『婉という女』の筆をおこし、昭和35年に刊行にこぎつけたときは47歳。小説の原点に、病魔の連続で培われた不屈の精神がすわったといえる。苦節10年をかけた作品からは、二人が二枚重ねのように映る不思議な思いになる。70歳で肺炎に罹り再び入院。こうして土佐の偉人野中兼山一族の悲劇を題材とすることで、大原富枝の名は文学史上に記憶されることになった。歴史はときとして残酷な仕打ちをもたらすが、近代国家となった日本において、兼山が活躍した土佐ではその偉業を称え記念碑が建立されている。
カトリック作家として
文壇の分類によれば、著者はカトリック作家に属し、信仰に至る道は漸進的であった。当初、キリスト教に関連した記述を作品中に書き入れることはあっても無神論を自称していた。が、ある段階から、カトリックの信仰と教えが心の琴線に触れるようになる。
『婉という女』と10年後に書きあげた『於雪─土佐一条家の崩壊』と比較してみよう。「わたくしはそして61歳になった。こうして、独りここに生きている。これからも生きてゆく」というのが『婉』の終わり方。『於雪』の終焉は、「土佐一条家はもう滅びていた。雪は百姓の女として死のうとしていた」とある。それぞれ女の哀しい運命が描かれているが、決定的な相違点のあることを見逃してはならない。荒涼・索莫とした心の婉に比して、於雪の心性はキリシタン的土壌、死を超克した生き方へためらうことなく近接している。この創作上の変化には作者のパトスが濃厚に刻印されているだろう。
生涯一人暮らしの大原は無類の犬好きであった。小説家たちは犬にまつわる作品をいくつも書いている。『禽獣』は川端康成の小説、動物文学を確立した戸川幸雄の『高安犬物語』、安岡章太郎の『愛犬物語』、マタギ犬を題材とした熊谷達也の『邂逅の森』などが知られている。大原には『三郎物語』がある。これは軽井沢の別荘を拠点に、同じく愛犬家の遠藤周作をまじえた雑種犬・三郎のノンフィクション。犬たちとの二人三脚の日々、遠藤一家とのほのぼのとしたふれあいから、人生の気苦労や悩みから解き放たれた晴れやかな様子が心に響いてくる作品である。
絶筆となった『草を褥に─小説牧野富太郎』からは、「明るいもの……明朗なもの……逞しいもの」に憧れている作者の心模様に出会うことができる。こうして信仰心を漸進させながら64歳で受洗。『イエルザレムの夜』『アブラハムの幕舎』『地上を旅する者』などは宗教色をからめた創作である。
大原富枝は、終生、死を見つめながら生きることの意味を創作・実生活をとおして問い続けた作家である。そして遂に、重い過去にこだわることから抜けだし、清新な未来への希望を獲得したといえるだろう。
(2021年10月10日付 780号)