吉備中山と吉備津神社

岡山宗教散歩(31・最終回)
郷土史研究家 山田良三

吉備国の神奈備
 吉備中山(きびのなかやま)は吉備の神奈備です。その麓には三備一宮吉備津神社と備前一宮吉備津彦神社が鎮座しています。古代の吉備国以来、吉備の宗教的中心地が吉備中山であり吉備津宮(明治以降、吉備津神社)でした。
 吉備津神社の旧社格は官幣中社で、明治以前は「一品吉備津宮」と尊崇されてきました。主祭神は大吉備津彦命で、御神体は吉備中山です。『日本書紀』には孝霊天皇の第三皇子、彦五十狭芹彦命(ひこいせさりひこのみこと)が、四道将軍の一人として山陽道に派遣され、弟の若日子建吉備津彦命とともに吉備を平定し吉備津彦命と尊崇され、子孫が吉備国造として吉備臣となりました。『古事記』には吉備津彦命が播磨の氷河(加古川)から吉備国に入り平定したとあります。
 吉備津彦命は、吉備中山山上の茶臼山の前方後円墳に御陵として祀られ、現在は宮内庁管轄です。山上には御陵の他、環状石籬など、随所に磐座と思われる遺跡が数多く遺ります。備前側の麓には備前一宮吉備津彦神社があり、中山の東端には神道山と呼ばれる黒住教の本部があります。
 吉備津宮は、古くは5つの社殿と72の末社からなり、かつては境内地に神宮寺があり神仏混淆の宮でした。神宮寺は天正年間に焼失後、衰微していきました。周辺には、藤原成親が流された有木の別所と呼ばれた高麗寺(青蓮寺)や、真如院、八徳寺、普賢院、本願寺など、吉備津宮の社僧として奉仕した寺院の記録が遺ります。
 国宝の本殿と拝殿は、観応2年(1351)に焼失後、後光厳天皇の命を受けた第3代将軍足利義満によって再建された建物です。比翼入母屋造(吉備津造り)と呼ばれる美しい様式で、東大寺大仏殿に似た神仏混淆の形式は、東大寺勧進として備前国に来た重源によるのではと言われます。
 御釜殿と南北の随神門は国の重要文化財、回廊は県指定の文化財です。御釜殿で行われる鳴釜神事は古くから行われて来た有名な神事で、吉備津宮を訪れた様々な著名人が記録を残しています。温羅伝説とも繋がりがあると言われますが、桃太郎と重ねての伝説は桃太郎の説話が室町以降なので、温羅伝説もそれ以降に形成されたのではというのが地元の専門家の見解です。吉備中山は鯉山とも呼ばれ、平家の武将・妹尾兼安の供養塔が鯉山小学校脇にあり、また近くに栄西禅師生誕地の碑が建てられています。
 吉備津宮の社家で最古の記録があるのは賀陽家です(『扶桑略記』)。賀陽家の本貫は足守で、そこから現在の吉備津神社の地に移り住んだとされ、近くに賀陽氏の館跡が遺ります。栄西禅師は吉備津宮の禰宜賀陽重遠の子として生まれ、11歳の時、安養寺で静心和尚のもとで得度、比叡山に登り、備前金山や大山などで修行後、渡宋、臨済禅と茶を招来します。栄西の父と静心は共に三井寺で学んだ間柄で、当時の吉備津宮が神仏混淆であったことがわかります。
 鎌倉初期に吉備津宮は後鳥羽院の本所(荘園領主)となり、仁和寺の所領となりました。しかし戦国末期には仁和寺の影響が弱まり、江戸初期になると社家の力が強くなって社僧が排除され、享保17年(1732)三重塔が破却されて以来、廃仏が進みました。
 吉備津宮の廃仏は、隣国備前岡山藩主池田光政による廃仏政策の影響があったとされます。ただし岡山藩では二代藩主綱政になると池田家の菩提寺として曹源寺(臨済宗)が建てられ池田家墓所となり、さらに曹源寺には真言や法華、浄土など各宗派の塔頭が設けられ、超宗派で仏教は保護され幕末まで続きます。
 吉備津宮の社家は賀陽家の他には藤井家、堀家、河本家などがあり、江戸中期以降は藤井家が代表的な社家を務めるようになり今に至ります。
 備前一宮吉備津彦神社と、備後一宮吉備津神社(福山市)は共に吉備津彦命を主祭神として祀ります。備前国では阿仁神社が備前国唯一の明神大社、官幣中社として崇敬を集めてきました。石上布都魂神社(現赤磐市)は、素戔嗚命が八岐大蛇を退治した布都剣、別名十握剣、あるいは韓鋤剣とも呼ばれる剣が納められた吉備の神部と記紀にある由緒ある神社で、池田光政以来池田家藩主の崇敬を受けてきました。美作一宮は中山神社で主祭神は鏡作神、社名の「中山」は吉備中山からきていると言われています。

吉備兒島の由加山
 私の生家(倉敷市児島白尾)のすぐ近くが由加山です。明治の神仏分離により、今は由加神社本宮と瑜伽山蓮台寺に分かれていますが、もとは神仏混淆の大権現でした。瀬戸内海航路の要衝吉備兒島の大権現として、讃岐の金毘羅大権現、伊予の石鎚大権現とともに日本三大権現の一つとして崇敬されてきました。
 江戸時代には、讃岐の金毘羅大権現との両参りが盛んになり、江戸・大坂はじめ諸国からの参拝者が絶えず、広重の諸国名所図会にも描かれ、全国的に有名になりました。参拝者に土産物として売られたのが真田紐で、これが現在の児島の学生服やジーンズの繊維産業の起源となりました。備前岡山池田藩の尊崇も受け、藩主自ら年に三度は直接参拝し、藩主を迎えた客殿が県指定の重文になっています。
 由加山は瀬戸内海航路の中枢、吉備兒島の中央で、弥生時代から磐座信仰が盛んでした。由加神社本殿の後方の巨岩が磐座です。児島には諸国に先駆けて白猪屯倉(児島屯倉)が設けられ、栄西禅師の母方はその屯倉を司った田使の難波氏です。天平5年(733)に勅願により行基が十一面観音を刻み祀って開基したのが瑜伽大権現の始まりです。また坂上田村麻呂が桓武天皇の勅命を受けて再興、鬼退治をして白狐が出たとの伝説が伝わります。その由加山の中興の祖とされるのが増吽(ぞううん)僧正(上人)です。
 増吽上人は正平21年(1366)、讃岐国與田村(現東かがわ市)の生まれ。祖先は蘇我氏で、土佐に流された蘇我氏の子孫が安芸姓を名乗り、阿波を経て、讃岐に移りました。讃岐の與田寺で剃髪、高野山で修行、後小松天皇の病気治癒の加持を命ぜられ、その験あらたかであったため宮中の信任を得、「弘法大師の再来」あるいは「今弘法」と言われました。
 上人は当時の仏教衰微を嘆き、荒廃した西日本各地の寺々の復興に尽くします。岡山では東山の安住院、総社の備中国分寺、児島の由加山蓮台寺、滝の正蔵院、日比の観音院など、児島八十八か所のうち十か所以上に関係しています。善通寺の国宝弘法大師の仏画をはじめ善通寺周辺の弘法大師の仏画はすべて上人作とされます。児島の瑜伽山蓮台寺には、上人作の毘沙門天、持国天、不動尊、金伽羅童子、愛染明王、石造弘法大師等の仏像、仏画が多く遺されています。宝徳元年(1449)、讃岐の山々が見える児島の9番札所無動院(現玉野市山田)の前庭で84歳で入定したと伝えられます。

神仏分離令と岡山
 明治初頭、神仏分離を命じる布告は、日本全国の宗教界に激震をもたらします。同時に始まった廃仏毀釈の動きは、神仏習合した権現信仰や修験道、陰陽道が否定され、さらに幕末の新宗教に多大な影響を及ぼします。岡山県各地でも多大な被害があり、仏像や仏具など貴重な文化財が多数破却されました。その中で、金毘羅宮で廃仏された本地仏の不動明王と毘沙門天像が、岡山出身の金光院末寺万福院の住職宥明師によって岡山にもたらされ、元岡山藩主池田候の仲介で西大寺観音院に引き取られ、今も大切に祀られています。
 神仏分離・廃仏毀釈と闘った備前出身の僧侶が京都相国寺住持の荻野独園(どくおん)です。独園は備前国児島郡山坂村(現玉野市)出身で、明治5年に政府の教導職になり、増上寺に大教院設置とともに大教正に任じられ、臨済・曹洞・黄檗宗総管長を兼務するようになります。
 独園は「信教の自由」を掲げて神道国教化を目指す大教宣布に強く反対し、神官や国学者と対立、廃仏毀釈に抵抗します。その結果、大教院は明治8年に廃止、神道国教化政策は破綻に至ります。相国寺に戻った独園は相国寺の再建に努めるとともに、廃仏毀釈の激しかった鹿児島の仏教寺院の再建に尽力します。相国寺が薩摩藩の京屋敷として貸していた敷地に同志社が創設される際には信教の自由の立場から、これを認めました。
 神仏分離の思想的背景になった一人、平田篤胤は秋田久保田藩の出身で、備中松山藩の兵学者平田篤穏に養子となり平田姓を名乗ります。諸学に通じ洋学や旧新約聖書にも通じて、独自の国学を打ち立てます。幽界(霊界)に関する著述も多く、仏教や儒教には批判的でしたが、むやみに否定したわけではなく、道理を大切にしました。晩年は平田家を辞し、再び秋田の久保田家に仕官し、天保14年(1844)に秋田で病没しました。
 岡山の宗教史は実に多彩で、日本全体の精神・思想史に多大な影響を与えてきました。その中心地が吉備中山と吉備津宮で、また吉備兒島は東西交通の要衝として、吉備と諸国の懸け橋の役割を果たしてきました。
(2021年10月10日付 780号)