連載を終えるにあたり

カイロで考えたイスラム(40)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

 連載を終えるにあたり、読者から寄せられた感想などを紹介したい。
 私がカイロを拠点に、中東での取材活動を共にした、ある日本の通信社の前カイロ支局長からこの6月、感想が届き、日本人仲間と読書会を開き、教材に使いたいので、本になったら10冊、自宅に送って欲しいとの申し出を受けた。
 読書会の教材として活用したい理由として彼は、イスラム教に関してこれだけ踏み込んで書かれた記事には出会ったことがなく、感銘を受けたこと、初心者にもわかりやすくまとまっていること、イスラムの真の姿を紹介できること、非常に明快で分かりやすいこと、などを挙げていた。
 また、あるキリスト教会で長年、指導者をしている博士は、「キリスト教に対する理解も深く、教会員の必読書と言っても良いと思いました」と評価してくださった。
 連載執筆にあたり私が特に注意した点は、イスラム教の現状を、客観的に正しく見つめて分析し、表現することである。と言うのは、ある一部の日本のイスラム学者の中には、イスラム教をよく知っていることを強調する余り、イスラム教の長所だけを強調し、短所を見逃す傾向があったこと。あるいは、イスラム教からの批判や、過激なイスラム教徒の暴力からの防衛のためか、イスラム教に媚びる姿勢がかなり見受けられたからである。
 私も現地に滞在中は、各種テロ事件や暗殺などを目の当たりにし、イスラム教を批判することの危険性を感じていたので、連載でもある程度の防護策を講じざるを得なかった面はあったが、短所だけでなく、長所も強調することでバランスを取り、できるだけ客観的な視点を維持するようにした。そういう事情から、物足りなさを感じる読者もいたと思うが、事情を汲み取りご容赦願いたい。
 振り返ると、イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教が間違った方向に進んだところを正し、本来のあり方に戻した後、ユダヤ教徒とキリスト教徒と共に再臨主を迎える準備をすべき宗教であったが、いつの間にか、自分の宗教だけが正しいとする、どの宗教もそうなりやすい独善性に陥り、却って分裂を生み出す宗教へと転がりつつある。
 さらに、先に歩んだキリスト教の教派分裂などを警戒するあまり、コーランの自由な研究や、ハディースその他の文献の研究を禁じ、極一部の限られた人物にのみ許すというような姿勢になった。そのため、イスラム教徒内部での議論が深まらず、科学的な論証や歴史的な論証は不十分なまま残されている。また、コーランの記述に矛盾があったとしても、それは人間にはわからず、神のみぞ知る、というように、人間としての責任を逃れ、神に責任を押し付ける結果をもたらしてきた。
 このことが偏狭なコーラン解釈を生み、過激派が跋扈する素地を作ったものと思われる。エジプトのシシ大統領は、イスラム教の現状を憂い、イスラム教スンニ派総本山、アズハルに対し、コーランや研究書籍から暴力表現を削除する、ある意味では一種の強力な宗教改革を呼びかけた。一時は、アズハル指導者が国際会議を開催し、その方向に進むかに見られたが、アズハル内部の抵抗もあったとされ、改革が思うように進んでいないとの風評も聞かれる。
 私の問い「イスラムに宗教改革は起こるか」は、閉ざされたイスラム世界が、自由なコーラン研究を取り戻し、柔軟な思考ができる宗教へと生まれ変わって欲しいとの願いが込められている。キリスト教が文芸復興や宗教改革を経験し、聖書が科学によってズタズタにされながらも、それゆえに、聖書の逐語霊感説から解放され、柔軟な世界観に脱皮したように、イスラム教も偏狭な啓示説から脱却し、人間の発展に応じた解釈に至ることは不可能ではない。
 今や、キリスト教に次ぐ世界第二の信徒数を誇り、間もなくキリスト教を追い抜き、世界一の信徒数を誇るであろうイスラム教の行く道は、今後の世界に多大な影響を及ぼすに違いない。それゆえ、イスラム教がテロ集団としてのイメージに甘んじることは許されず、健全で世界中によき伝統を伝搬する宗教へと生まれ変わることが求められている。
 イスラム教改革は、イスラム指導者によってなされるべきことを考え、本連載はイスラム指導者への“勇気ある提言”の形をとった。少しでも彼らの耳に届けば、何よりも有難い。イスラム教の改革により、今世紀にはユダヤ教徒とキリスト教徒、イスラム教徒がこぞって再臨主を待ち望む、世界的な宗教運動が興ることを望みつつ。
(2021年8月10日付 778号)