アリス・ペティ・アダムス宣教師

連載・岡山宗教散歩(29)
郷土史研究家 山田良三

アリス・ペティ・アダムス宣教師

セツルメント
 岡山で日本で最初のセツルメント(隣保事業)を興し、その生涯を社会福祉事業に投入したアメリカン・ボード宣教師アリス・ペティ・アダムスは1866年8月3日、ニューハンプシャー州ジャフレーに生まれました。ジャフレーは、アダムス家の先祖である2代大統領ジョン・アダムスと6代大統領ジョン・クインシー・アダムスなど多くの著名人を輩出しています。
 横浜などが開港になると、米国のキリスト教各派は競って日本に宣教団を送りました。アメリカン・ボードは他の教派より少し遅れて1869年にD・C・グリーン博士が来日、横浜は既に多くの他教派宣教支部があったので、神戸に支部を設けました。神戸では英語教育や医療活動が高く評価され、教育や医療の改革を目指していた岡山県は、明治12年にアメリカン・ボードのミッションセンターを招致しました。
 医師の資格を持つ宣教師ら4人が来岡、高崎五六県令の歓迎で宿舎も提供され、地元有力者中川横太郎の全面的支援も得て出発しました。同じアメリカン・ボード宣教師として帰国した新島襄の同志社卒で熊本バンド出身の金森通倫が牧師となり岡山教会が設立され岡山宣教は軌道に乗りました。アダムス宣教師は明治24年5月1日、同年3月に開通したばかりの山陽鉄道で神戸から来岡。当時25歳のアダムスは長身でその風貌は人目を惹き、岡山で初めて自転車に乗るなど評判になりました。
 宣教師として最初の任務が岡山市上内田町(現舟橋町の北辺)にあった岡山教会伝道所南部安息日学校で中学生の英語の聖書講義の担当でした。通った道が花畑の御幸堤を通り渡船で旭川を渡る道でした。当時の花畑は貧しい人々が多く住み、通りすがりに子供たちから「異人さん」とからかわれ、石を投げられたりもしました。
 彼女はそういう子供たちを感化しようと、米国の友人たちに絵入りの子供新聞や雑誌、カードを送ってもらい子供たちに分けて話しかけました。すると子供たちも「アダムス先生」と慕うようになり、東山の宣教師宅でクリスマス祝会を開くと、子供たちが沢山やって来ました。帰り際に「また来てもいい?」と聞かれたので、それから貧しい花畑の子供たちの日曜学校が始まり、後に花畑小学校に移転します。これが日本で最初のセツルメント「岡山博愛会」の始まりで、「博愛会」は「Loving all」から付けられました。

小学校、施療所を開く
 アダムスは宣教師会が開いた薇陽(びよう)学院の英語教師も務めました。作家の正宗白鳥や陸軍大臣になる宇垣一成なども生徒でした。東京音楽学校の教授となり、小学校唱歌「故郷」「朧月夜」「紅葉」「春が来た」「桃太郎」などの作曲者岡野貞一はアダムスの日本語教師だった姉を頼って鳥取から来岡、アダムスから英語とオルガンを学び、その好意で東京音大に進みました。メソジスト本郷教会のオルガン奏者を前任奏者ガントレットの指名で引継ぎます。
 アダムスは不就学児のための学校創立を思い立ち、明治29年、花畑に私立花畑尋常小学校を開校、石井十次の岡山孤児院の尋常高等小学校とともに県下で代表的な私立学校となりました。明治32年から御津金川の私立養忠学校の英語教師も務めますが、その教え子の一人が作曲家の山田耕筰です。山田耕筰は姉の恒が第六高等学校(現岡山大学)の教授だったエドワード・ガントレットの夫人でした(日本初の公式的国際結婚)。ガントレットはオルガン奏者・作曲家としても有名で、山田耕筰は彼から西洋音楽を学び作曲家へと進みます。
 花畑にはキリスト教講義所が明治32年に、裁縫夜学校が34年に開校します。明治37年、小学校新校舎の建築が始まります。アダムスは花畑に病気の人がいると放っておけず県立病院に連れて行き、ポケットマネーで治療費を払っていましたが、数が増え距離もあるので小学校に施療所を併設しようと考えました。医療支援には宣教本部からの援助が貰えなかったので、慈善音楽会等で資金を集めて施療所を開設し、自ら看護の資格をとるなどして無料施療を続けました。これが博愛会病院の始まりです。
 日露戦争後の明治39年、石井十次の岡山孤児院には戦争孤児が集まり1200人に増えていました。同年、幼稚園を創設、明治40年、住民のために小学校の浴場で週2回の「施し湯」を始めます。施療所建設が迫られ、地元中国民報社(現山陽新聞)社長夫妻をはじめ地元有力者の支援を得て実現します。私立金光中学(現金光学園)で講演したのを機に、金光教本部と金光中学校の支援も得られます。宣教会では認められなかった英語教師などによる副収入を全て投入して福祉活動を維持しました。

伝記は出版しないで
 明治41年、休暇で帰米したアダムスは、米国の福祉活動など視察して帰岡、43年に保育園を併設します。体調を崩し、明治45年に肺結核と診断され、大正3年、療養のため一時帰米。同5年に帰岡し再び奉仕を続け、12年、藍綬褒章を受章します。昭和11年、勲六等瑞宝章を受章し、宣教師の定年70歳で帰米します。岡山の各界各層の人々が長年の功績に感謝し、別れを惜しまれての離岡でした。
 翌12年、マサチューセッツ州ニュートンのナーシングホームで没。翌年の命日、地元有志により岡山の市街を見渡せる東山霊園の高台に、女史の遺髪を埋葬した墓碑が建てられました。アダムス宣教師は岡山の人々から今でも愛され慕われ顕彰され続けています。
 博愛会を引き継いだ更井良夫氏が編集の『社会福祉法人 岡山博愛会100年史』(1991年刊)に、アダムス宣教師がそれまで伝記を出版しなかった理由を記しています。
 「ミス・アダムスの伝記を遺さねばとの思いで帰米が決まった宣教師を訪ね、棚にあった数十冊の日記帳を遺してほしいと頼むと、『博愛会には私の伝記を出版するお金はありません。日記帳は遺しません。』と言われ、翌朝行くと全て焼却されていました。『私の伝記は出版しない約束をしてください。そのお金があれば、他の有効なことのために使ってください。』と言われ、その後も伝記の材料となる話は一切ノーコメントでした。我々が博愛会を引き継ぐまでの彼女の愛の業は新約聖書コリント人への第1の手紙13章『愛は寛容であり、情け深い。妬むことをしない、高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、恨みを抱かない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ、そしてすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える』に則ってなされた。」とあります。
(2021年8月10日付 778号)