「生命への畏敬」こそ究極の実践哲学
シュヴァイツアーの気づきと実践(26)
帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫
人はだれでも、時代的また地域的制約を受けて生きている。植民地化された地域の住民は、筆舌に尽くしがたい生活を余儀なくされてきた。欧米の列強諸国は、彼らの悲惨な労働によって、富を築いたのである。その悲惨で劣悪な状態から彼らを救いだし、イエスの愛の教えを伝えようと、身を賭して活動したのがアルベルト・シュヴァイツァーである。植民地政策は1960年代までつづいたのであるが、シュヴァイツァーは1913年から65年まで、暗黒大陸アフリカで医療の奉仕活動を行った。
シュヴァイツァーほどの学問的、音楽的素養の深い人が、このような献身をすることは、見方によっては馬鹿げたことであったと言えよう。彼は誠実な献身奉仕によって、逆巻く反対の声を鎮めたのである。それはキリスト者としての彼の信念から出たものであり、同時に惰眠をむさぼるキリスト教界への痛烈な皮肉・批判でもあった。
シュヴァイツァーの行為には、いくつかの批判や非難があびせられた。一見もっともらしい非難である。しかしよく読むと、それらの非難はアフリカのコンゴ地方の地域的実情と時代的推移に関して無理解があったことがうかがえる。シュヴァイツァーの行為を植民地政策の終わった時点で、西欧文明的視点から眺めたのでは正しく評価できない。私たちはもっと素直に、もっと謙虚に、もっと温かい目で、シュヴァイツァーの行為を見るべきではないだろうか。事実、彼のやりとげたことは、常人の思いや行為をはるかに超えた崇高なものだったからである。
現地でシュヴァイツァーによる医療活動の恩恵を受けてきた人たちの中からも、シュヴァイツァーに批判の目を向ける動きが出てきた。植民地から独立国へ移ると、自らのプライドもあって、自分たちを弟として見下してきたシュヴァイツァーの姿勢が許せなくなってきたのだ。これがシュヴァイツァー批判の波に乗ったのである。何とも狭い了見ではないか。
人の思いや考えに枠をはめることはできない。思考は自由に飛びまわるからである。ただし、誤った思考を反省したり、指摘することはできる。他者のために生きることを中心に据えるならば、どのような思考や行為が本物であるか……。これを真摯に考えて実行するのが、教養ある人と言えるだろう。
人類をはじめ、すべての生あるものを育んできた地球が、いま喘ぎ苦しんでいる。このままでは地球は大きな異変を起こし、人類も消え去ることになるだろう。今こそ、シュヴァイツァーの提案した「生命への畏敬の倫理」が活かされるべきではないだろうか。
私はより幸せに生きようとしている。あなたも同じことを願っている。動物も植物も、あらゆる存在物がよりよい環境を求めている。大局的な立場から、深い倫理性をもち、慈愛の心で事物や生命に接する……。これこそが現代人に求められている教養ではないか。
学問のある人もない人も、財産のある人もない人も、健康な人も病弱な人も、大人も子どもも、だれもが「よりよく生きようとする心」を大事にする。こんな教養が世界にあふれれば、すべての状況はよくなるだろう。シュヴァイツァー博士、よい教えと実践をありがとう!
(2021年8月10日付 778号)