イスラム教とどう向き合うか(下)
連載・カイロで考えたイスラム(39)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉
短所の第5は、イスラム諸学派やイスラム諸神学に、教理の不完全さがあることだ。神の創造に関して、神が完全であられ、唯一の創造主なら、なぜ悪が存在するのか、神はなぜ人間の不幸を救わないのか、救えないのか、人間の運命や行動は全て神の予定なのか、それとも人間に責任があるのか、終末にはイエスが再臨するとされているが、終末はいつきて、何が起こるのか、天変地異が起こり、死人が復活するのか、裁きの基準は何なのかなどについて、論争はあったものの決着はついていない。
我々はイスラム指導者に対し、まず歴史的な疑問点が、今までのイスラム神学では完全に解明されていないことを確認させ、今後、イスラム神学を総合的に再検討し、歴史的な疑問に対し明確に答えられるよう、最大限の努力を要請する必要がある。
アズハルやワッハーブ派を信奉するサウジアラビア、シーア派の守護者を任じるイランに対して、早急に統一見解をまとめ、互いの見解を論議し合い、イスラム教全体として統一見解を出すよう要請すべきだ。教義の相異ゆえに信徒に信仰上の混乱が生じ、それが原因の教派間闘争で多大な犠牲者が出ているからで、聖戦思想とテロとの関係性も避けて通れない問題である。
我々はイスラム指導者に対し、神観や人間観、天使観、サタンの正体、罪の原因、予定論、終末論、死とは何か、霊界の実相、イエスの再臨、聖戦、聖典、神の摂理などについて、イスラム教徒全員が納得できるような統一見解を出すよう要請すべきである。
短所の第6は、コーラン研究の自由が妨げられていることだ。コーランの研究が許されているのは、ごく限られた地位に就いている人々で、一般の学者や研究者、信徒には許されていない。教派分裂や異端出現を警戒しての対策だろうが、根本的には、コーランは啓示の書であり、章句の変更は不可能で、解釈も固定されているのが原因のようだ。
欧米の学者が、神の啓示としてではなく、ムハンマドの語った言葉としてコーランを研究することに対しては、強い反発や批判が示される。しかし、青柳かおる氏が、「コーランを神の言葉として絶対視し、一言一句神の言葉とし、神聖視することは、聖典研究の大きな壁になっている」と指摘する通り、解釈の自由がなければ時代の変遷についていけない。啓示とはいえ、時代に制約されたコーランの言葉を、時代に応じて解釈する自由は認めるべきだろう。我々はまず、イスラム指導者に対し、コーランの研究が自由でない現実を認識してもらう必要がある。
イスラム指導者およびイスラム教徒に、短所の改善と是正を求めたい。親の宗教にかかわらず、子供は自分の自由意志で宗教を選択できるようにすべきだ。信徒らも、勇気を持って他宗教を学び、比較研究し、どの宗教が自分が心から納得できるかを見極め、選択する必要がある。モスクの中に他宗教のコーナーを設置したり、他宗教の指導者を招いて話を聞くのも一つの方法だろう。
イスラム教の女性差別は深刻だ。我々はイスラム指導者に対し、まず自分の家庭で男女同権を進め、コーランやイスラム法における、女性差別的な章句を男女同権の立場から訂正させ、男女が同じ権利を享受できるよう改正させるべきだ。コーランの章句を変えることが不可能なら、解釈により国家の憲法や法律に適合させる必要がある。イスラム指導者に、女性の声に耳を傾けるよう働きかけたい。
コーランに暴力を肯定し、テロを正当化する章句があるにもかかわらず、その事実を認めず、「イスラム教は平和の宗教だ」「コーランには暴力表現は一切ない」「テロリストはイスラム教徒ではない」などと主張するイスラム指導者とイスラム教徒が多い。彼らにコーランの暴力肯定の章句を示し、確認させた上で、改善を求める必要がある。
エジプトのシシ大統領は大統領就任後、イスラム教スンニ派総本山アズハルに対し、今までのイスラム教義の中から、暴力表現を一掃する「宗教改革」を断行するよう要請した。今まで、イスラム過激派を「イスラム教徒ではない」として、トカゲの尻尾切りに徹していたアズハルは方針を転換し、信徒を教育するようになってきた。アズハルはまず、モスクの説教者から、ムスリム同胞団系説教師を排除し、過激思想が信徒に影響を及ぼさないよう徹底し、カイロで国際会議を開いて、殊に若い信徒らに対する教育の徹底化を決議し、実行に移している。ただ最近はその情熱も薄れ、いつの間にか、「テロリストはイスラム教徒ではない」として責任逃れに戻りつつあるとの評もある。原点に立ち返り、信徒への教育責任を命がけで果たしてほしい。
他宗教との関係では、起源が同一のユダヤ教とキリスト教との協調を模索、探求してほしい。その際、避けて通れないのは、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教の関係解明と、旧約聖書と新約聖書、コーランの関係解明、さらには創造論や堕落論、終末論、予定論、再臨論など教義の相違を克服することである。聖書では、アブラハムが献祭しようとした息子はイサクだが、イスラム教はイシマエルだと断言している。イシマエルがイスラム教の先祖に当たることからで、それがキリスト教徒に不快感を与えている。しかし、イスラム教徒は、「正しいのは神の啓示で、聖書の記述が間違っている」として譲らない。
ユダヤ教とキリスト教、イスラム教が、メシヤの到来を待ち望むという共通性を持っているのはなぜか。やがて来る終わりの日(終末)にはメシアが降臨するという展望も共通している。他の宗教にも、それぞれの宗教の使命完成者の到来を待ち望むところがある。こうした諸宗教の共通性も展望しながら、3つの一神教の違いを克服し、共存する道を探るべきであろう。イスラム教指導者も、世界と他宗教を見わたしながら、神の真の意図を捜し求めるべきである。
(2021年7月10日付 777号)