李舟撰『能大師傳』の歴史的意義

国際禅研究プロジェクト研究発表会

伊吹敦東洋大学教授

 「国際禅研究プロジェクト」(伊吹科研)本年度第1回研究発表会がオンラインで開催され、国際禅研究プロジェクトの伊吹敦・研究代表者(東洋大学教授)が「李舟撰『能大師傳』の内容とその歴史的意義」との論題で発表した。要旨は次の通り。
 李舟(740─787)撰の『能大師傳』は早くに失われ、現在は、姚寬(1105─62)の『西溪叢語』中に、內容についてのわずかな言及があるのみ。同書の説く 「慧能傳」は、先行する敦煌本『六祖壇經』と『曹溪大師傳』に基づき、その両者を総合する形で成立し、また、後世に多大な影響を与えた。『六祖壇経』と『曹溪大師傳』は8世紀後半に荷澤宗內部で相次いで作られたものと見られるが、両書で提示された「慧能傳」の間には多くの相違や矛盾が認められ、「六祖」としての普遍的な慧能伝を作ることが喫緊の課題となり、そうした中で現れたのが李舟の『能大師傳』であったと考えられる。李舟は両書を総合する際、まず『曹溪大師傳』の年代論上の矛盾と混乱を解消し、その後、それに含まれていない內容を『六祖壇經』から取り込む必要があった。
 李舟は隴西の成紀(甘肅省)の人で、16歳の時に黃老學で科挙に合格し、23歳で金吾衞大將軍掾、25歳で湖南觀察使孟皞從事、兼觀察御史、その後地方官を歷任した後、780年に宰相楊炎の取り立てで金部員外郞となり、781年には吏部員外郞となったが、楊炎の死後、讒言によって左遷され、峽州(湖北省)の刺史、783年頃、虔州(江西省)の刺史となった。784年に饒州(江西省)で隱退し、787年に病死している。
 李舟は熱心な仏教徒で、馬祖の弟子、西堂智藏(738─817)の在家の弟子で、42歳の時には、金部員外郞、吏部員外郞等の職にあり、成立間もない 敦煌本『六祖壇經』と『曹溪大師傳』を入手できる環境にあった。その後、刺史となった虔州では西堂智藏が敎線を伸ばしており、また、李舟が智藏の在家の弟子であったとする伝承があるので、李舟が智藏の重要な檀越であったことは史実であろう。李舟が饒州(現在の江西省上饒市)に永住の地を定めたのも、智藏に師事することが一つの目的であったと思われる。
 それまでの六祖慧能の伝記は全て荷澤宗によって書かれ、荷澤神會のみを特権化しようとするものばかりだった。こうした中、馬祖の後継者となった智藏は、それとは異なる洪州宗の「慧能傳」を必要としていたはずで、文化人として 名高い李舟に新たな「慧能傳」の撰述を依賴した可能性がある。この推定が確かであれば、『能大師傳』には、六祖慧能─南嶽懷讓─馬祖道という系譜を正当化する記述があったと考えるべきである。
 李舟の『能大師傳』は敦煌本『六祖壇經』と『曹溪大師傳』を総合するとともに、 その矛盾を止揚し、『寶林傳』に取り込まれることで、後世の燈史の基礎となった。『曹溪大師傳』が9世紀の初めに入唐した最澄がもたらした一本以外に存在が全く知られないのは、李舟撰『能大師傳』によって基本的に全てにおいて乗り越えられたため存在意義を失い、散佚したからである。また、『能大師傳』の散佚も、その說がほぼ『寶林傳』に取り込まれたため、存在意義が失われたためであろう。李舟撰『能大師傳』は『曹溪大師傳』に勝るとも劣らぬ極めて重要な歷史的な意義を有したと見るべきだ。
 李舟撰『能大師傳』は、その独自の存在意義を失い、やがて歷史の静寂に忘れ去られたが、「六祖慧能」の伝記が確立される上で果たした歷史的意義は極めて大きい。李舟撰『能大師傳』の存在を考慮に入れることで各種「慧能傳」に見られる年代論の混乱のかなりを說明できる。それ故、「六祖慧能」の伝記が形成される過程を探る上で不可欠の資料と言える。(2021年7月10日付 777号)