豊作祈る御田植祭を斎行

「はじまりの島」の伊弉諾神宮/兵庫県淡路市

苗を植える早乙女と児童たち

 梅雨の晴れ間の6月12日、兵庫県淡路市多賀にある伊弉諾(いざなぎ)神宮(本名孝至宮司)で、五穀豊穣を祈る恒例の「御田植祭」が斎行された。コロナ禍でも応募してきた早乙女と児童ら各18人によって植えられた稲は氏子によって育てられ、10月の「抜穂(ぬいぼ)祭」で収穫され、稲束を伊勢神宮の神嘗祭に奉納するほか伊弉諾神宮の祭儀で神前に供えられる。
 『日本書紀』『古事記』には、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、「日本のはじまりの島」淡路島多賀の幽宮(かくりのみや)に鎮まったとあり、それが同宮の起源とされる。淡路の枕詞は「御食(みけ)向かふ」で、古くから海と山の産物に恵まれ、宮中に食物を献上してきた。同宮の御田植え神事は第二次世界大戦の影響で昭和16年以降途絶えていたが、氏子・崇敬者らの強い願いから、古老らの記憶をもとに平成3年に再現された。
 「御斎田」(約240平方メートル)で田植えを行ったのは、白装束に赤いたすき、笠をかぶった早乙女姿の県立淡路高校(旧淡路農業高校、同市富島)の女子生徒や同宮いざなぎ會の女性ら18人と地元の保育園児ら18人。注連縄が張られた田に入り、氏子や保護者らが見守る中、本名宮司が打つ太鼓の音に合わせ、早苗を数本ずつ手に取り、丁寧に植え付けた。
 同日は午前10時から同宮で神事が執り行われ、巫女2人により淡路神楽が舞われた後、境内の住吉神社にお参りし、拝殿前のしめ縄が張られた境内で、早乙女たちが苗を手に、「わかなへ うえほよ…」と神職らが歌う「古謡御田植唱」に合わせて、「御田植踊」を奉納した。
 本名宮司によると、住吉神社は古来、航海の神・港の神として祀られた神社であるが、当地の「すみの江さん」は稲作の神として信仰されてきたという。大阪の住吉大社にも大規模なお田植祭があるように、北九州に始まる水田稲作は、海の民によって瀬戸内から畿内へと伝播されてきたのであろう。
 その後、神職と氏子がかごで担ぐ早苗を先頭に、列を組んで神宮近くの御斎田に移動。代かきされた御斎田で、最初に本名宮司が苗を植え、続いて早乙女が横一列に並び、張られた縄の目印を目安に、宮司の打つ太鼓の音に合わせて「イセヒカリ」の苗を植えた。
 イセヒカリは三重県の伊勢神宮の神田で発見された、自然交配によるコシヒカリの突然変異種で、神聖な稲として神事などで使われている。コシヒカリより丈が低く、風雨に強い。苗は本名宮司が神事としてもみをまき、苗代で大切に育てられてきたもの。
 御斎田のほぼ半分まで植えたところで法被姿の児童が田んぼに入り、早乙女に助けられながら、苗を植えていった。見守る保護者らは子供たちの姿を映像に残そうと、カメラやスマホを構え、熱心に見守っていた。
 記紀によると、大和王権が成立したとされる3世紀前半の第10代崇神、11代垂仁天皇の時代、三輪山山ろくを支配していたのが倭国造(やまとのくにのみやつこ)で、その氏族は淡路の海人集団と関係が深いという(新谷尚紀『神社の起源と歴史』吉川弘文館)。新谷氏は「倭王権の本拠地である大和盆地の主たる神である倭大国魂神と、それを祀る倭国造たる倭直(やまとのあたい)という氏族が、実は大和盆地の出身ではなく、瀬戸内海交通の要衝である淡路島の明石海峡あたりの出身であるという伝承があったということが重要である」(前掲書)と述べている。ちなみに、伊弉諾神宮は伊勢神宮と同緯度上にあり、中間点に飛鳥藤原京がある。
 古代王権の成立と深くかかわる淡路島の稲作神事は、それを復活させた高齢者たちから若い世代へと、着実に継承されている。 
(2021年7月10日付 777号)