富士山信仰と日本人
2021年8月10日付 778号
今年は聖徳太子の没後1400年で、太子についての展覧会などが開かれている。古くから信仰の山であった富士山に、初めて登ったのは聖徳太子との伝承がある。いわゆる「甲斐の黒駒」伝承で、山梨県富士吉田市の浄土真宗本願寺派の如来寺には、それにちなむ太子の騎馬像がある。
同寺の人たちと8月3日、聖徳太子富士登山を行う前日、リニューアルなった同市の「ふじさんミュージアム」を訪ねると、「富士を知る、日本を知る」をテーマに、古代からの富士山信仰の変遷が展示されていた。
神仏習合の山
富士山は古来から山容の美しさを讃えられてきたが、一方では、甚大な被害をもたらす火山として恐れられてきた。山麓にいくつかある浅間神社は噴火を鎮めるためで、それが富士山信仰の始まり。恵みと災いをもたらす自然への感謝と畏敬が日本人の心性を形成してきたのである。
長い間、富士山は遠くから拝む対象だったが、平安時代末期に噴火活動が沈静化すると、日本各地の名山と同じように山岳信仰の修行の山になった。山岳信仰は神道と仏教が習合した日本的宗教で、修験者は主に冬季に山に入り、身を浄めて神霊を受け、里に下りて人々のために加持祈祷を行っていた。富士山麓にはいくつか修行寺があり、現世利益的な富士山信仰を形成するようになる。
縄文時代からの日本人の暮らしから生まれてきた神道には決まった経典や教義はなく、渡来の仏教からそれらを吸収した。社殿も寺院にならって建てるようになったもので、それまでは自然の山や岩、樹木などが信仰の対象、もしくは神が降りてくる依り代だった。つまり、実際にはインド哲学に鍛えられ、中国で生活化した仏教が神仏習合をリードしたのである。例えば、富士山頂の噴火口の周りにある8つの峰は、本尊である大日如来を中心に阿弥陀・文殊・釈迦・普賢・薬師・観音・勢至・地蔵に対応する名称が付けられ、完全に仏教世界になっていた。
戦国から江戸時代の初め、富士山信仰の教義をまとめたのが行者の長谷川角行で、溶岩洞窟にこもり、14㌢四方の木の上での千日間の立行や穀物を絶つ木食行、百日の水行、北口本宮冨士浅間神社の参道にある石の上で30日間裸体での立行など行ったという。教えは弟子たちに受け継がれ、江戸時代後半、食行身禄(じきぎょうみろく)や村上光清らにより、仲間で金を出し合い、代表が登山する「富士講」が結成された。名前から弥勒信仰を持っていたと思われる身禄は、角行のような法力ではなく、正直・慈悲・勤勉などの生活倫理により、願いが富士の神に届き、世直しが成るという信仰を説いた。
富士山信仰を広めたのが御師(おし)と呼ばれる人たちで、御祈祷師の略。山麓に宿坊を構えて登山者を泊まらせ、拝礼の仕方などを指導していたので、今でいうツアーコンダクター。御師は特定の富士講を檀家とし、夏の登山時期以外は檀家参りをして、祈祷やお札配りなどで信仰を広めた。
檀家制度を定め、寺を行政に組み込んだ幕府の宗教政策で、仏教が世俗化していったのに対して、庶民の側から起こった新興宗教の1つが富士講と言えよう。他にも大山講や伊勢講なども盛んになり、そうした気運の高まりが幕末の大転換をもたらす要因にもなった。
如来寺の聖徳太子の騎馬像は江戸時代末期に富士講から寄進されたもので、山開きの間、それを八合目にある同寺の祠に祀っていた。それが明治の神仏分離で廃止されたのを、郷土史家の提案で復興したものである。
自然と一つになる
インド哲学が「梵我一如」(宇宙との一体化)を目指したのは、無限の宇宙生命によって生み出された私たちにとって、その認識が最高、最深のものだからであろう。それゆえ私たちは、自然と自己との内面的な関係を納得するまで探究するようになっており、それこそ自分なりの宗教、信仰と言えよう。
七合目からの険しい岩場を登りながら、これも梵我一如への道の一つかと、先人たちの信仰の足跡の上に今の自分があることを感じていた。