『秀吉と利休』野上弥生子(1885〜1985年)

連載・文学でたどる日本の近現代(20)
在米文芸評論家 伊藤武司

漱石を師と仰ぎ
 野上弥生子は明治18年、大分県臼杵の商家の娘として生まれ、かなり活発な少女時代をすごした。明治33年、16歳で上京し、キリスト教系の明治女学校で6年間学ぶ。明治女学校は女子教育の先駆の一つで、新時代にふさわしい有能な人材を輩出した。
 回顧録『その頃の思ひ出』で野上は、「風変わりなおもしろい」クリスチャンの講師陣に囲まれ、北村透谷や島崎藤村、牧師の植村正久、哲学者の大西祝、英語の津田梅子などがいた。なかでも内村鑑三の印象は強烈で、「胸の底から揺すぶりたてられた」という。小説は虚構、小説家は軟弱だとする内村の小説嫌いは有名で、小説家を志した野上には少なからぬ感慨があったろう。確かなのは、権力に屈しない反骨精神を学んだことにある。
 21歳で、夏目漱石の木曜会の仲間であった同郷の豊一郎と結婚。22歳で書いた『縁』が漱石から推薦され、弟子のように扱われ文書を交わすようになる。生涯の師と仰ぐ漱石から送られてきた長い激励の手紙には、「文学者として立つには年は大事だが、しかし、ただ漫然と年をとってはいけない。文学者として年をとらなくちゃいけない」とアドバイスがしたためられていた。若い野上はそれを座標軸に創作にむかった。生涯の作品群は百数十篇あまり。多くはないが、自己のペースを守りながら仕上げた作品は高い評価を受け、近代日本の女流文学をリードする一人となった。
 戦前に刊行した『海神丸』は37歳の出世作。実際の海難事故を素材に、難破した貨物船の船員たちの飢餓状況を、鬼気せまるストーリーで描いた。46歳で上梓した『真知子』は英文学者で翻訳家だった夫の訳したジェイン・オースティンの小説『高慢と偏見』が手本。大学で学ぶ真知子を主人公に、結婚にもブルジョワの生き方にも左翼思想にもあきたらず、新しい女性像を模索した意欲作である。
 『中央公論』の連載が中断し、戦後、6年間かけて完成したのが長編『迷路』。二・二六事件から日中戦争にかけて、左翼運動の跋扈、軍部の台頭、政財界の動向を背景に、時代の波に翻弄される人びとを描写。代表作の歴史小説『秀吉と利休』の他、随筆や日記、外国の童話の翻訳もあり、76歳で文化勲章を受章した。
 ていねいで端正、凛とした文体で、派手な華麗さはないものの、すきのないたたずまいと安定感は生涯崩れなかった。理智的な筆づかいによる作品は重厚・堅固、フレームに乗せた物語の筋は明快で、筆力を感じさせる。
 談話『夏目漱石』で恩師漱石を「日本の近代文学の金字塔」と称賛。『三四郎』『門』などの苦悩は、己のすぐ隣に住んでいるような庶民の苦悩や嘆きや怒りであり、それが「漱石をいまだに生きた人としている」と評価する。夫の豊一郎は日本の伝統芸能の研究者でもあり、能楽を海外に広めた。八重子も能について蘊蓄を語れるレベルに達している。
 
78歳で『秀吉と利休』
 長編『秀吉と利休』は4年の歳月を傾けた、著者78歳の渾身の一作。物語を理路整然と組み上げる構成力には、読者を引き込む力と勢いがある。
 冒頭から千利休の全体像を精細に記述する。聚楽第内に茶室「不審庵」を備えた屋敷を構えた利休は、多忙な日々をおくっていた。その利休が、久々に堺に立ち戻る。晩春の陽光の下、潮の香のする「土地らしい潮湯のむし風呂」を終え、妻・りきのしつらえた朝餉にむかう。彼が多忙なのは、関白秀吉に重用され一瞬も気のおけない立場にいたからである。かつての信長の茶頭から、今は3千石を賜り、関白の相談役に任ぜられている。「70に近づきながら骨格、肉づきに衰えのない」大男の意識の底には常に秀吉がいた。戦国の世、茶の湯は能とともに武家社会でその権威を高めていた。茶席が政治の場にもなる特異な時代が小説の舞台である。
 信長が家臣の明智光秀に討たれ、戦国大名の関係が大きく変わったが、茶の世界では利休の権威は絶対的だった。茶道具を見立てる鑑識眼は図抜け、並みいる武将たちやキリシタン大名が高弟となっている。
 ところで利休には、茶人とは別の顔がある。心変わりが激しく傲岸な秀吉に伺候する利休の出目は、南蛮船の行き交う堺。納屋衆と呼ばれる自由な気風の堺商人で、今井宗久、津田宗及などの有力者も茶の湯を好んでいた。堺での利休は、使用人に「塩物問屋のあるじらしい気軽さで」接していた。思えば、商人の自由な気風と傲慢な権力者の秀吉との間に、軋轢が生じないほうがおかしい。
 『秀吉と利休』が奥行きのある内容になった理由に、紀三郎という息子を創作したことが挙げられる。偉い父親に反発的な紀三郎は、息苦しい家から逃れ、解放感にひたるのを好み、父の名に結び付けられることを嫌った。茶人としては尊敬に値するが、政治や陰謀などにかかわるのには納得できない。利休の周辺を息子に語らせる手法が斬新である。
 秀吉が主人役の茶席で、利休はその点前を「一箇の木像のごとく、寂寞と厳かに」見据えている。関白秀吉が「一種えたいの知れない気おくれに捉えられるのは、この瞬間である」とし、秀吉が感じたとおり、利休は秀吉の恣意的で大げさな所作が「空疎な味のないもの」だと分かっていた。次いで、秀吉が客となり利休に点てさせると、わざとらしくない見事な「天下一の点前」に、「感嘆、満足」し、「これほどの男を勝手にできる誇りが、あらたに強まる」のであった。虚栄心の強い屈折した心理の秀吉は、「利休を愛し、重んじ」ながらも「時に彼を憎んだ」。
 秀吉という「権威と、富と、それにもとづく後援がなかったら」利休の独創性は発揮されない。「秀吉がなくてはならない保護者であった以上に、秀吉にとっても利休はなくてはならない」。利休にも「感謝と反発が、尊厳と侮蔑が表裏になってへばりついていた」のである。
 この小説の独創性は、心理分析を果敢に試み、利休と秀吉の個性的な人物像を深掘りしたところにある。聚楽第での秀吉は、献上されたヨーロッパ式の寝台で目覚め、銀の置き時計の音で朝を迎える。その生活は、武将と貴族の生活様式を折衷した趣があり、貧農出身の兵らしく、朝飯はこわ飯を早食いするのを好んだ。
 ある日の政務は、30になったばかりの奉行・石田三成が一番に出仕。九州の島津討伐は成功したが、国内統一は未完で、一向に恭順しようとしない小田原の北条氏をいかに切り崩すか談義された。「彼の飽くなき征服欲には、日本はもう狭すぎた。…完全な勝利。それを一とまとめにする壮大な華々しい雄図を、唐大陸の出兵で見事やってのけようとする」夢が秀吉にはあった。
 午後には異父弟・秀長と共に同じ聚楽第に住む実母・大政所を久々に訪ねると「尾張なまりも、身うちでは憚らない」。しかし、田舎に未練をもつ母親を前に、自己の血統の賤しさを知る秀吉は、苦々しい思いにかられるのである。

庇護者秀長の死
 クリスチャン作家・三浦綾子の『千利休とその妻たち』は、誇り高い利休が茶道に入れ込むのに影響を与えたのが、キリシタンの妻だとする。井上靖は『本覺坊遺文』で、弟子・本覺坊から師の切腹の真相に迫るが、謎は残る。山本兼一の直木賞作『利休にたずねよ』の秀吉はおごり高ぶる天下人で淫猥。若い頃放蕩を重ねた利休であるが、茶の湯の美を知る今の身には、権力をかさに聖域をいたぶる態度に我慢できないのだ。以上3作と比べ、野上作には格別な趣が感じられる。利休、秀吉、家康、三成などを描き分け、構成もしっかりしている。
 秀吉には茶人利休の名声を政治的に利用する目算があった。島津征伐で利休は、補佐役としてかかわってきた。秀吉は利休を重用しているが、秀吉の不興を買う恐れは常にあった。結局、茶事という美の聖域に素人の秀吉が入り込み、利休を公儀の相談役にしたのが原因といえる。大徳寺の知己・古渓や弟子の山上宗二が秀吉の勘気をうけ追放されたこと、利休の古希の木像彫刻が大徳寺の山門に置かれていた件、大陸進出に反する失言などが絡み合い、利休に反感をもつ三成一派に次第に謀られてゆくのである。
 三成は家康、政宗など有力大名の動向を注視していた。利休の事実上の庇護者秀長が病死すると、利休の立場は不安定になる。利休と官僚的な三成との「どこか底にひそむいきみあい」や「なんとなく反りのあわない」関係が、やがてはっきりと敵意に変わり、秀吉との関係も揺れながら、利休は堺へ追放されてしまう。
 物語の圧巻は終焉の二章で、利休は最後まで秀吉に詫びなかった。「腹わたの煮えくり返る憤怒」にかられた秀吉は利休に切腹を命ずるが、生と死の岐路に立たされて利休の心は定まっていた。それは茶道修養に心魂を傾け、美の極致を極めた者の心意気といえた。さらに「自由都市の伝統的な性根」もある。終始親に反抗し、自分流に歩んだ紀三郎はどうであったか。偉大なる父を喪い、心に大きな空洞をかかえたまま、何処へともなく故郷を後にする。

99歳で絶筆『森』
 野上は没する直前まで現役の作家であった。明治生まれの気骨ある日本人の見本のようで、戦後もかくしゃくとしていた。『一隅の記』は、著者82歳の人間ドックいりの体験記。娘の時の縁日の話、フランス滞在中、欧州大戦に巻きこまれた回想、はたまたモーリアック、ヘルダーリン、イプセン、プラトンから物理学まで話題に事欠かない。夏目漱石、芥川龍之介、安倍能成、中勘助、田邊元、谷崎潤一郎、宮本百合子、円地文子など作家・文化人らとのエピソード、風物詩、時代相も随筆集や回想録、日記に印象深く活写されている。最晩年でも新刊本を手に取り、好奇心と学びの心は衰えることがなかった。
 日清・日露・太平洋戦争を凝視し、戦争に対する不信を生涯貫いたのは、「潔癖な激しさをうちにもっていた母」の性格を引き継いだからという。随筆『私の信条』の「私は今日は昨日より、明日は今日よりより善く生き、より善く成長することに寿命の最後の瞬間まで努めよう。…そうしていよいよ死ぬ時がきたら、寛々とそれこそ帰するが如く死んで行き度い」とは75歳の言葉。家庭人と作家の両面を支えるため、文筆・読書に専念できる自由な環境づくりを心がけたという。
 家族ぐるみで付き合った田邊元の妻と弥生子の夫が同時期に亡くなると、伴侶を亡くした2人はその後10年、互いの仕事を励まし合い、知的で清白な恋愛関係をもったエピソードは有名である。
 絶筆は小説『森』で、あと一息で完成するという99歳の大作。波乱の近代100年の歴史を生きた文人の大往生で、昭和61年、臼杵市に野上弥生子文学記念館が開設された。
(2021年7月10日付 777号)