独特な天国と地獄観
カイロで考えたイスラム(25)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉
イスラム教の来世観(終末観)は、死んだらすぐ天国・地獄に行くのではなく、死人は皆、終末の最終戦争後に甦って神の審判を受け、それにより天国もしくは地獄に行くことになっている。最終戦争を経て最後の審判が行われるので、それまでは墓で審問を受けているとされ、聖戦で命を落とした人は、即天国に行くとの考えもある。
来世こそが本当の世界で、現世は来世のためにあるとするイスラム教では、来世を前提に現世の大切さが説かれている。このような来世観は、信じる人には生存中に善行を促す大きな要因ともなることから、長所と言えるだろう。
実際、他人を助けるなどの善行や喜捨などは、死後天国に行くための積立預金と考え、一生懸命に励んでいる。道端のホームレスに小銭を与える姿は、他国に比べイスラム諸国はかなり多く見られるのも事実だ。ラマダン時の献金は平時よりも高く評価され、多額の献金が集まるという。
ただ自分が救われるために意図的に善行に励むことが、生き方として正しいか否かは疑問が残る。本当の奉仕は値を求めず真心を尽くすことだとすれば、値のために善行する姿を神は良しとするかどうか疑問だ。
短所はいくつかある。一つは、天国や地獄に対するこのような考えが、科学が発達した現代でも通じるのかどうか深刻な問題だ。多くのエジプト人によると、イスラム教の終末観や天国観、地獄観をそのまま信じることが出来ないので、イスラム教を否定したり、無神論者に傾いたりする若者が増えているという。日本の通信社に勤めている2人のエジプト人女性はイスラム教嫌いで、無神論者を自称している。
第二に、天国や地獄を信じない人にとっては、イスラム教の教理は単なる脅しとしか思えず、それに対する反発からイスラム教を否定するようになり、さらには無神論の拡大にもつながることだ。
イスラムの説く天国はかなり独特で、『クルアーン』の婦人章57節には「信仰して善い行いを励む者には、我は川が下を流れる楽園に入らせ、永遠にその中に住まわせよう。そこで彼らは、純潔な配偶を持ち、我は涼しい影に彼らを入らせるであろう。」とある。
雌牛章25節には「信仰して善行に勤しむ者達には、彼らの為に川が下を流れる楽園についての吉報を伝えなさい。…また純潔な配偶者を授けられ、永遠にその中に住むのである。」とある。
イムラーン家章15節には「アッラーを畏れる者達には、主の御もとに楽園があり、川が下を流れている。彼らはその中に永遠に住み、純潔な配偶を与えられる」とある。
アラブの灼熱の太陽の下に誕生した宗教らしく、天国の第一の条件は、川が流れ(水をいつでも飲め)、涼しい場所であるようだ。さらに、純潔な配偶者が与えられるという章句が多く、では地上での妻たちは一体どこにいるのだろうと思ってしまう。
基本的に家族を大事にするイスラム教が、死後の家族については、そんなことお構いなしの天国観を示しているのは不思議だ。イスラム教の天国観が正しいか否かは、宗教としての真価を問われる問題になり得るだろう。
地獄に関する記述を見てみよう。婦人章55─56節には「だが彼らのある者はこれを信じたが、ある者はそれから背き去った。地獄は燃え盛る火として十分であろう。本当の我が印を信じないものは、やがて火獄に投げ込まれよう。彼らの皮膚が焼け尽きる度に、我は他の皮膚でこれに替え、彼らに、飽くまで、懲罰を味わわせるであろう。」とあり、燃え盛る火の中に投げ込まれて焼かれるとの表現が多い。
どういう人が地獄に投げ込まれるかについては、イムラーン家章9─14節に「最後の審判の日に(中略)信仰を拒否する者に言ってやるがよい。あなた方は打ち負かされて地獄に追い集められよう。」とあり、悔悟章73節には「預言者よ、不信者と背信者に対し、奮闘努力し、彼らに厳しく対処せよ。彼らの住まいは地獄である。」とある。明証章6節には「啓典の民の中(真理を)拒否した者も多神教徒も、地獄の火に(投げ込まれ)て、その中に永遠に住む。これらは、衆生の中最悪の者である。」ともある。地獄に投げ込まれるのは、信仰を拒否する者、不信者と背信者、多神教者たちである。
この教えを信じなければ地獄に行くと主張する宗教は多いが、そうした見方は客観性に欠け、独善的、排他的になりやすい。地獄の強調は、それを畏れる人を善行に導く点では長所といえるが、脅迫により人を委縮させ、人間本来の自由で闊達な人生を妨げるのは大きな欠点だろう。
(2020年4月10日付762号)