アフリカでの医療奉仕を決心

シュヴァイツアーの気づきと実践(10)
帝塚山学院大学名誉教授 川上 与志夫

 1900年前後のころ、アフリカは暗黒大陸と呼ばれていた。黒人たちは非常に原始的な生活を送っていたのである。伝道協会のアフリカ報告は「だれか主イエスの慈しみに富んだ目くばせに、快くうなずいてくれる人はいないか」と結ばれていた。これを読みおわったとき、アルベルトはアフリカでの医療奉仕に生きるのが自分の使命なのではないか、と思った。彼がそのように強く感じたのは、29歳の秋のことである。神との約束を守るには、あと数か月しか残されていない。心を決めたものの、彼は慎重にならざるを得なかった。はたして自分にそんなことができるのだろうか。自問自答の日々がつづいた。
 自分の健康は大丈夫か。それだけの忍耐力や経済力があるか。心血をそそいできた神学的探究やパイプオルガンの演奏をあきらめられるか。現在つづけている教会での説教や大学での講義から離れられるか。学問的、音楽的名誉欲はないのか。彼は厳しく自分自身を吟味した。その結果、これらのすべてに合格点をだした。そして30歳の誕生日(1905年1月14日)に、アフリカ行きをきっぱりと心に決めた。
 彼は自分のアフリカ行きや医学部への再入学の決心を手紙にしたためた。両親をはじめ親戚や友人たちにそれを送ったのは、10月13日のことであった。
 知らせを遅らせたことや医学部に再入学する決心には、彼なりの打算があったのではないかと思われる。医者になるには厳しい勉学が必要だ。その数年間を利用して、やり残してきた神学や音楽の研究をまとめたかったに違いない。神学、音楽、医学の、3本建ての勉学をするだけの意欲と能力と健康が自分にはあると信じたのだ。心をそこに落ち着かせるのに、1月の誕生日から10月までの時間が必要だったのだ。
 アフリカ行きの決意を公表する前に、アルベルトはフランス語版の『バッハ』を出版した。長年にわたって研究してきたバッハ音楽の神髄にかかわるものである。その後医学部に入学し、講義を受け始めた。同時に彼は、オルガンの師であるヴィドール先生と数人の仲間とともにパリ・バッハ協会を設立して、その専属オルガニストになった。教会説教と大学講義はつづけていたが、31歳のとき、神学校寮の寮長は辞した。そのため、生活費を稼ぐ必要も出てきた。同じくこの年、学生時代から強い関心をもっていた『イエス伝研究史』を出版した。ヨーロッパの神学界に衝撃を与えた書である。
 超人的な量の仕事をこなしながら、さらにもう一つの著作にとりかかっていた。フランス語版の『バッハ』に満足できなかったので、医学部で学びながらドイツ語で内容を一新することにしたのだ。彼にとって、ドイツ語のほうが機微な情感を自由に表現できたからだ。ドイツ語版『バッハ』は3冊の膨大な著作となり、33歳のとき出版された。今ではバッハ研究の古典的存在になっているという。
 神学講義や説教の準備、医学の研究、演奏旅行などの忙しい日がつづいた。彼のアフリカ行きに反対の声をあげていた人たちも、いつしか温かい目を向けるようになっていた。
(2020年4月10日付762号)