ムハンマドは「最後の預言者」の長短

カイロで考えたイスラム(24)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

 コーランは、ムハンマドに限らずアダムを最初とし、その後のノア、アブラハム、モーセ、ダビデ、イエスなどを預言者として認めている。ただ、ムハンマドは最後の預言者で、コーランでは「預言者の封印」と記されている。なぜか? それ以前の一神教の逸脱を正す最後で最大の宗教がイスラム教だとしているからだ。
 イスラム教から見ると、ユダヤ教の逸脱は、本来すべての人間に開かれているはずの一神教を、イスラエルの民に限定してしまったことにあり、キリスト教の逸脱は、預言者であるイエスを神とし、神の唯一性を損なわせてしまったことにある。
 これが事実かどうか検証してみよう。ユダヤ教がイスラエルの民だけに救いを限定せざるを得なくなった理由について、イスラム教は明確に答えていない。しかし、当時の世界、殊に各種宗教が乱立したイエス生誕の4、500年前の中東を見ると、ヤコブが天使に勝利して得たイスラエル(勝利者)という神の祝福(命名)から始まったイスラエル民族は、その伝統を固く守りながらも、世界宗教になるべく準備を進めていた。仏教や儒教、ギリシャ哲学などが同時代に生まれ、ローマ帝国が全世界に交通網を整備していたので、ユダヤ教がイエスを受け入れていたら、イエスを中心としたユダヤ教が、ローマ帝国の基盤を活用して全世界に拡大する可能性があった。
 そうなれば、ユダヤ教は世界宗教として、仏教や儒教、ギリシャを基盤にしながら世界に受け入れられたのではないか。そうならなかった一因は、ユダヤ教の伝統を引き継ぎ、ユダヤ教指導者をイエスにつなぐ使命のあった洗礼ヨハネが、神から啓示を受けていたにもかかわらず、イエスを最終的に不信し、十字架に追いやったことにある。間接的だが、イエスが十字架刑に処せられる最も重大な原因を作ったのは彼である。
 洗礼ヨハネがイエスの一番弟子となり、ユダヤ教そのものをイエスの教えに変えたならば、イエスのユダヤ教が全世界に伝播されることになったであろう。その場合、キリスト教が生まれる必要も、ましてやイスラム教が生まれる必要もなかった。洗礼ヨハネの失敗が、ユダヤ教を民族宗教としてとどまらせ、それに代わりキリスト教が世界宗教への道を歩み出したのである。
 イスラム教は、キリスト教の逸脱は、預言者であるイエスを神と考え、神の唯一性を損なわせてしまったことにあるとするのだが、この理解は正しいのか?
 一説によると、イスラム教は神と神の子を混同している。イエスは自分を神の子と言ったのであって、神だとは言っていない。イエスの言う神の子は、神の心を自分の心にして完成した人間という意味で、神そのものではない。イエスはあくまで人間である。父母の心情を知る子供が、父母を悲しませることは出来ず、父母が喜ぶことをしたいと願うように、神の子とは、親である神の心を自分の心として感じるような、親孝行な息子という意味である。
 イエスを神に押し上げたのは、パウロをはじめ後のキリスト教指導者たちである。イスラム教はそれを指して、キリスト教はイエスを神にしたと主張するのだが、キリスト教の中には、「イエスは神の子であって、人間だ」とする教派も多い。キリスト教への一律的な批判は差し控えることが望まれる。
 ムハンマドを預言者、殊に最後の預言者としたことの長所は、イスラム教の一体性に貢献し、教派分裂を最小限に止めたことにある。ムハンマド以上の預言者の出現を封じたからである。
 イスラム教が、ムハンマドが最後の預言者で、その後に預言者は現れないとする論拠を、コーラン以外に見いだすことは難しい。つまり、信じるか信じないか、信仰上の問題であることが、最大の短所であろう。
 いろいろな疑問が湧き上がってくる。キリスト教の言う再臨のイエスは、イスラム教では預言者ではないのか? もし再臨のイエスも預言者なら、ムハンマドとの関係はどうなるのか?
 預言者たちは、なぜその時代に出現しなければならなかったのか? 彼らはどんな使命を持っていたのか? 彼らはその使命達成に成功したのか失敗したのか?
 私の知る限り、これらの疑問にイスラム教指導者は、納得のいく回答を用意していない。
(2020年3月10日付761号)