高野山真言宗のなごやか法話寄席/横浜市

仏様の真似をして生きよう

名取芳彦僧正
法話をする名取芳彦僧正

 2月18日、横浜市中区の横浜にぎわい座で高野山真言宗神奈川自治布教団(伊藤浩雅団長)主催の第35回なごやか法話寄席が開催され、約300人の観衆が集まった。
 伊藤団長の開会の挨拶の後、第1部が始まり、東京都・密蔵院住職の名取芳彦僧正が法話を行った。法話の内容は次の通り。
 弘法大師というお名前は、空海上人は御存じなく、高野山奥の院で息を引き取ってから87年後に贈られたもの。「大師」という諡号(しごう)は朝廷からしかもらうことができない。その時の逸話がある。
 「弘法大師」の諡号の勅を得て京都から和歌山へと向かった東寺の高僧、観賢(かんげん)が高野山の奥の院に行き、入定している空海に「『弘法大師』という諡号を朝廷から賜りました」と報告をした。帰りに「無明の橋」を渡り名残惜しげに振り返ると、空海が橋の向こうで合掌して見送っているのが見えた。びっくりした観賢が心の中で「弘法大師ともあろうお方が私ごときを見送ってくださるとは、滅相もない」と思ったとき、心に空海の声が聞こえ「勘違いするな、私はおまえを見送っているわけではない。おまえの中にある仏性を見送らせていただいているのだ」と言ったという。今年はそれからちょうど1100年目の節目に当たる。
 私たちは自分の都合通りにいかないと「苦」を感じる。生老病死はその代表格。「苦」をなくするために、その「都合」をかなえるという方法は西洋の考え方だ。もう一つの考えは「都合」そのものを少なくすることで、心が穏やかな状態になる。その状態になった人を「仏」という。仏様は悟りを開いているので、いつでもどこでも穏やかな状態でいられる。仏教では物事の真実の在り方を明らかにし、諦め、苦をなくしていく。智慧と慈悲の二本柱で心を穏やかにしていこうというのが仏教で、相手との共通項に気が付いたとき、人はやさしくなれる。
 自分の不幸を誰かのせいにする人は、その誰かを許すことができない。許してしまうと、自分の不幸の説明がつかなくなるからだ。いやそうではないかもしれないということに気が付くことを、仏教では智慧という。許すということは、不幸でないと自分に気が付くことだ。聞いて穏やかになる自慢話は、感謝で終わる。百千万の恩によって生かされている自分だからこそ、何をするにしても恩返しだと思える。「恩返し」という小さな言葉が私たちの日々の姿勢を変えることができる。
 弘法大師が中国から伝えられた心を穏やかにする方法は、仏教の中でも実にユニークな方法で、「仏の真似をする」こと。仏様だったらどうするか、どう言うか、どう考えるか、考えてまねる。例えば、スーパーに行って牛乳を買うときに、奥にあるものを取らずに手前から取る、そうしないと一番前の商品が賞味期間切れになってしまう。
 真言宗では仏の真似ができているとき、その人を「仏」であるという。その「仏」でいられる時間を増やすことが大切だ。そうしていけば、確実に仏に近づくことができる。
 第2部では、初めに林家さく平が古典落語「転失気(てんしき)」を演じ、次に笑点の大喜利の出演者である林家たい平師匠が、時世に合わせた冗談を織り交ぜながら古典落語「井戸の茶碗」を披露して観衆を魅了した。第3部ではお楽しみ抽選会が行われ、参加者に景品がプレゼントされた。
(2020年3月10日付761号)