備作地方に来た一遍(下)

岡山宗教散歩(14)
郷土史家 山田良三

金森山新善光寺
金森山新善光寺の一遍巡錫地碑(津山市)

備前福岡
 福岡(瀬戸内市長船町福岡)には、七つ井戸や旧商家などかつて山陽道随一の商都として栄えた街の佇まいが残っています。町の端の日蓮宗妙興寺には黒田官兵衛の祖父高政の墓があります。黒田家は近江から福岡に移住、目薬を売りながら家運を盛り返し、姫路城主から戦国大名にまで登り詰めました。官兵衛の息子の長政が筑前国に入府し、築いた城に父祖再興の地「福岡」の名を冠したのが福岡城で、福岡の市県名の由来です。
 妙興寺には備前国を平定した宇喜多直家の父興家の墓もあります。宇喜多氏は福岡商人の援助を受けながら備前の平定を果たします。岡山に城を築いて城下町を整備、福岡の商人を招いて商店街を作りました。それが今の表町商店街で、元は福岡町と呼ばれていました。地元百貨店の天満屋等も福岡がルーツです。
 弘安2年(1270)の春、京の因幡堂で参籠後、8月に出発、48日を要して善光寺に到ります。善光寺参詣後、佐久小田切(佐久市)にある叔父河野通末の墓所に参詣、そのところの武士の館で、鎮魂のために始めたのが踊念仏でした。その後この踊念仏は時衆教団の布教の重要な手段になって行きます。
 この後一遍は白河関を越えて奥州に向かいます。奥州江刺(岩手県北上市)の祖父通信の墓に詣で、陸奥の塩釜から常陸を経由し武蔵を巡錫、弘安5年(1282)3月1日に鎌倉に到ります。鎌倉入りは許されず、鎌倉との境にある片瀬の「館の御堂」、往生院、浜の地蔵堂等で供養を行うと、多くの僧と庶民が鎌倉から参集して来ました。鎌倉を出てからは、伊豆三島から駿河を遊行、弘安6年に尾張、美濃を通り近江に到ります。
美作国一宮(中山神社)
 弘安7年、横川の真縁上人のとりなしがあり、近江の関寺で行法、入京して四条京極の釈迦堂、因幡堂、三条悲田院、雲居寺、六波羅蜜寺、市屋道場から桂に到ります。ここで一遍は発病、秋に桂を発ち、篠村から丹後の久美浜、但馬、因幡、伯耆の逢坂八幡を経て美作に入ったのです。
 聖絵には、美作国一宮(中山神社)参詣のことを次のように詞しています。
 「美作国一宮にまうでけるにけがれたものも侍らむとて、楼門の外におどりやをつくりて、おきたてまつりけり、それをたちてかなもりと申所におはしたりけるに、彼社の一の禰宜夢に見るやう、一遍房を今一度請ぜよ、聴聞せんとしめし給、又御殿のうしろの山のおびただしく鳴動しけるを……このゆえにかさねて招請したてまつりて、このたびは非人をば門外にをき、聖時宗等をば拝殿に入れたてまつる」
 一行に穢れた者がいるからとして参拝を許されず、楼門の外に踊り屋を作って賦算、宮を出て「かなもり」に来た時に、一遍の奇瑞を夢に見た一の禰宜から再招請を受けて宮に帰ると、聖時衆は拝殿に招かれ、その後粥の接待を受けたとあります。
 この「かなもり」とは、美作一宮中山神社から10キロ程東、津山市中村にある金森山新善光寺だとの伝承です。
 金森山新善光寺は、天長8年(831)、弘法大師が厳島から東上の途中、池から明星が出現して森を金色に染めたところから金森山と名付けられ、大師自ら多聞天、持国天を刻み安置したとの伝承です。一遍の作州巡錫からおおよそ百年、永徳2年(1382)に今井兵庫助入道兼重という土豪が、信州善光寺の脇立本尊阿弥陀如来を勧請し、本尊として堂宇を整備、「新善光寺」の寺号となりました。室町後期の大火により焼失しますが、その後復興、後に津山城主森忠政が、かつて信州川中島の領主で善光寺を崇敬の誼から田地を寄進したとの記録です。江戸中期には四国八十八か所の本尊の石像が勧請され、今でも地元美作の名刹として尊崇を集めています。
 弘安9年(1286)、一遍は再び四天王寺に参籠、住吉神社を経て和泉国太子廟で3日間参籠、当麻寺に参詣後、再び熊野にて参籠、冬には石清水八幡宮から天王寺に到ります。
 弘安10年の春、播磨国の書写山円教寺を参詣後、備中国軽部宿( 岡山県総社市清音軽部)に到ります。

備中国軽部宿
 聖絵に伝えられる軽部宿での出来事は次の如くです。「弘安十年、備中国軽部の宿と申処におはしけるに、花のもとの教願、四十八日結縁せむと申て、つきたてまつり侍りけるが、日数みちければ、むかえのひとなんどくだりけるに、おりふしわづらう事あれば、むかへのものをばかへして、ひとすぢに臨終の用心にてぞ侍りける」
 一遍一行に追随してきた連歌師が自分の余命を悟り、迎えを帰して、最期を一遍に看取られたとの話です。
 一遍は軽部宿に一か月半滞在しました。軽部の東4キロの所に、毘沙門天で有名な浅原山安養寺があります。恵心僧都源信の開基で、裏山の経塚からは『往生要集』の文が書かれた完全な形の埋経が出土、栄西禅師の得度や、藤原成親の出家の寺としても知られ、一遍巡錫当時は「浅原千房」と言われ備中国随一の名刹でした。一遍も参詣したはずです。安養寺成願堂(宝物殿)脇には、源信と一遍の像が建っています。浅原は福山合戦でほとんどの堂宇が焼失しますが、毘沙門天像を祀る毘沙門堂だけは焼失を免れ、その後復興し今に至ります。
 聖絵には、軽部の次は備後国一宮吉備津宮(福山市新市町宮内)に詣でたとあります。備後も元は吉備国でした。ここでは秦皇破陣楽という舞が一遍のために奏されました。
最後の旅路
 安芸国の厳島に詣でて後、正応元年(1288)約10年ぶりに伊予国に帰ります。40歳で遊行に出発した一遍は50歳になっていました。当時道後の宝厳寺は、一遍の弟仙阿が時宗寺院として再興、河野の惣領家は従弟の河野通有が継ぎ、弘安の役の武功で家運を盛り返していたころでした。
 故郷でしばらく休養したのち、12月に河野氏の氏神伊予三島社に参詣、その後今針(今治)の別宮に移り、翌年2月に再び三島社に参詣後、讃岐国に入ります。
 弘法大師の生誕地の善通寺や曼荼羅寺などを参詣しています。善通寺には、讃岐に流された法然が参拝、寄進した自身の逆修塔(生前の供養塔)がありますが、法然の曾孫弟子にあたる一遍は、深い感慨をもって訪れたことでしょう。
 讃岐から阿波国に入った一遍は6月1日、吉野川を下り「大鳥の里河辺」という所で病身になります。7月初め阿波から淡路島に渡り、淡路二宮大國魂神社で踊念仏を奉納、淡路一宮伊弉諾神宮と二宮しつき天神社に参詣、7月17日に明石に渡り、兵庫の観音堂に着きました。
 8月2日、観音堂で法話、遺誡の詞を残すと8月10日、手元の経を書写山の僧に託し、残りの書籍と阿弥陀経を焼いてしまいます。8月21日、西宮の神主に最後の十念を、播磨淡河殿の女房に最後の念仏札を施し、8月23日往生しました。亡骸は荼毘にふされ、在家者により墓所が設けられました。
(2020年3月10日付761号)