備作地方に来た一遍(上)
岡山宗教散歩(13)
郷土史研究家 山田良三
時宗の開祖
鎌倉仏教の浄土教の最後に登場するのが一遍の時宗です。日本の浄土教の源流は、教学面では源信、実践面では空也と言われますが、空也を尊敬した一遍は諸国を遊行、「六十万人決定往生 南無阿弥陀仏」と書いたお札を配る「賦算(ふさん)」を行いました。
現在の岡山県はかつての備前・備中・美作国で、合わせて備作地方と呼びます。「一遍上人聖絵」には、備前国福岡市(ふくおかのいち)、美作国一宮中山神社、備中国軽部宿が描かれています。
一遍(幼名松寿丸)は延応元年(1239)伊予国生まれ。父親は河野通広、母親は大江氏で、河野家は越智氏の流れをくむ豪族で、瀬戸内随一の水軍を擁していました。もとは平家傘下でしたが源平合戦で源氏方に付き、源氏の有力御家人になります。しかし承久の乱では、一遍の祖父通信が後鳥羽上皇方について敗北、奥州江刺に流されました。鎌倉についた本家筋は残ったものの、一遍誕生の頃の河野家は没落していました。
父の河野通広は出家して如仏と称し、京都の法然の弟子証空のもとで修行、承久の乱当時は伊予に帰っていました。証空の教えを伊予で受継いだのが通広で、一遍は後鳥羽上皇が隠岐で崩御した年に道後温泉の奥の宝厳寺で生まれたのです。
河野氏は備前国とは深い繋がりがありました。南朝の忠臣児島高徳の正妻は河野氏の娘貞子で、『太平記』には児島(三宅)氏と河野氏は同族であると書かれています。
一遍は10歳の時、母が病没、父の勧めで出家、13歳で大宰府に行き約10年間、証空の弟子から浄土宗西山義の教えを学びます。弘長3年(1263)に父が亡くなると、伊予国に帰り還俗し、半僧半俗の生活を送ります。一族の争いを機に再度出家を決意、文永7年(1270)、出家した弟の聖戒とともに大宰府に行き再出家、その後、信濃の善光寺に参籠、ここで「二河白道図(にがびゃくどうず)」を模写し、伊予に持ち帰り窪寺で本尊として3年間、念仏三昧をするなか悟りを得ます。
その後、伊予の菅生(すごう)の岩屋寺に参籠、文永10年(1273)、一切を捨てて遊行の旅に出ました。熊野権現への道は同行三人(超一、超二、念仏房)、四天王寺、高野山などで修行後、「念仏勧進」の願を立て、「南無阿弥陀仏」の賦算を始めます。
紀州熊野山中で「信心が起こらないので受け取れない」という僧に、無理に札を渡したことを悩み、熊野権現本宮にお伺いを立てたところ、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、札を配るべし」とのお告げを受けます。ここから「六十万人決定往生」の文字を加えての賦算を始め、この時から一遍と号するようになります。
同行者は伊予に帰し、自らは京の誓願寺を訪ね、西海道を経て文永の役(元寇)後の博多で戦死者の供養をし、伊予国に帰国して国内くまなく賦算。大宰府に師を訪ねて後、九州各地を遊行、大隅八幡、豊後の守護大友氏を訪ね、この頃二祖信教入門、宇佐八幡に詣で、弘安元年(1278)夏、同行7~8人と伊予に帰国。秋に安芸厳島~周防を回り、冬に備前国福岡に到ります。この頃河野氏は、元寇の役の武功から勢いを盛り返していたので、瀬戸内海航海は河野の船で移動したのでしょう。
一遍聖絵の「福岡市」
一遍聖絵の「福岡市」(ふくおかのいち)は、中世の市の様子を伝える貴重な資料として歴史教科書に多用されています。聖絵には、「藤井という政所」で家主の妻が出家の場面、次に留守中に妻が出家したことを怒った主人が福岡市で一遍に迫る場面、最後にその主人が出家する場面が描かれています。
絵詞には「同年の冬、また備前国藤井という所の政所におはして念仏すすめ給けるに、家主は吉備津宮の神主の子息なりけるが、ほかへたがいたり、その妻女聖をたとびて法門など聴聞しにはかに発心して出家をとげにけり」とあります。
その「藤井」とはどこなのか? 岡山市の旧山陽道沿いに藤井がありますが、それだと一遍は陸路で福岡に行ったことになります。海路で牛窓から藤井に至ったとすると、備前国総鎮守の安仁神社がある旧藤井村(現岡山市東区西大寺一宮)だと思われます。
安仁神社(当時の名称は不詳)は式内社(明神大社)で、備前国の元一宮、現在の岡山県では最古にしてかつ格式の高い大社で、藤井氏の氏神であり藤井氏が神主でした。藤井の東、現牛窓町千手にある千手山弘法寺は、天智天皇の勅願で開かれ、天平年間に報恩大師が再建、大同年間に弘法大師が千手観音を安置し千手山弘法寺と称すようになった備前屈指の巨刹で、ここに藤井氏が藤井の領主だったとする資料が残されています。
吉備津宮の神主の子息
福岡市で一遍に太刀を向けた武士が、一遍の「吉備津宮の神主の子息か!」との一言に畏怖を感じ、自らもとどりを切って出家したとあります。吉備津神社の社家出身で吉備地方史の研究をしている元岡山大学教授の藤井駿氏は、「四条縁起」(京都四条道場金蓮寺所蔵の「一遍上人縁起」)に、出家した主人の妻は「領主の娘」とあるので、「吉備津宮の神主の子息」は、藤井の領主の娘に婿入りした吉備津宮の子息ではないかとしています。
吉備津宮(備中)の神官家は、栄西の出自にあるように賀陽家でした。その後賀陽家は次第に衰微し、代わって藤井家が主要な社家を担うようになり、今に至っています。一遍巡錫当時の備中国吉備津宮と備前安仁神社の藤井家との関係が気になります。
聖絵詞には、吉備津宮の神主の子息の出家に感動し280名余が出家したとあります。これが時宗集団の出発ともいえる出来事ですが、今の福岡周辺には時宗の寺はなく、隣の長船にある真言宗西方寺慈眼院が、かつては時宗であったとの記録が残るのみです。
備前国は、後に播磨国からやって来た法華宗の大覚が商人や武家に受け入れられ、特に金川城主松田家が帰依、領国内の寺院を悉く改宗させたことで広まりました。
法華宗は、鎌倉時代に日蓮が開いた法華経を根本経典とする宗派の総称で、鎌倉末から南北朝期に大覚によって備前、備中、備後地方に広まり、後に「備前法華」と呼ばれるようになります。時宗の寺の多くも、その時期に法華宗に改宗してしまったのでしょう。(2020年2月10日付760号)