『苦海浄土』石牟禮道子(1927〜2018年)

文学でたどる日本の近現代(6)
在米文芸評論家 伊藤武司

 水俣病は公害の典型といわれ、国に認定されてから60年以上が経過している。近代化がもたらす公害は、国家の近代化や文明化とともに発生し、今日では世界各地で社会問題化する文明病である。文明の利便性は人類に恩恵をあたえる反面、弊害も被るという皮肉な結果をもたらすのである。
 中でも大企業がひきおこす公害は大きな負の遺産である。なぜならば、悲惨な公害が一たび起きると、その弊害を現状へと回復させるための代償はあまりに大きいからである。
 本来人間は、自然の中で幸福に生活できるはずである。しかし、現代文明の膨張は、水俣病のように、時としておぞましい惨状を招来する。人間の過度の欲望や無知の犠牲となって、不条理きわまりない犠牲者と望まない環境が出現してしまうのである。
 『苦海浄土』は、水俣病の実相を、九州・不知火沿岸の「辺境の村落」や水俣市を舞台に描いたノンフイクションである。画期的だったのは、1969年本書刊行をきっかけにミナマタの名が世界的に喧伝されるようになったことにある。その大きな反響から、短歌や詩を創作するくらいで、ごく普通の生活をしていた一主婦が、作家として自立を決意することになったのである。様々な場と形をとおしてミナマタを生涯のライフワークとするようになるとは、当初の彼女にとって夢にも思わなかったことだろう。
 さて一言指摘したい点は、本作品の作成は、プロの作家のように計画的に執筆されたのではなかった。実に偶然と好奇心と運命的な出会いの結実であったことである。詳細は、石牟禮の自伝に書かれているが、要するに、好奇心旺盛な筆者が、たまたま訪れた場所でミナマタの話を知ったり、あるいは、共同の井戸端で主婦たちの会話から耳にはいったことがきっかけで、「この証言は記録されねばならない。そうわたしは思った」と、一種の自覚が生じたことに始まる。
 生まれ育ちが天草地方、有明海地域で教育を受け、水俣に引っ越してからの33歳のころ、筆者の居住地で発生した奇病と出会って興味をいだいたわけである。そして一通り読んでみると、『苦海浄土』は、郷土との因縁浅からぬ石牟禮道子あってなった運命的な作品だという実感を強く感じざるをえない。
 筆者は、国土の片隅で生起した深刻な文明の弊害をテーマとして世に訴えでた。そうした視点からは、告発書であるという指摘は確かに的を射ている。しかしそれで『苦海浄土』の全てを語っているということにはならない。
 日本における企業公害の草分けは、明治期に発生した足尾銅山鉱毒問題とされる。石牟禮は、足尾銅山問題の立役者・田中正造を思想上の父と仰ぎ、ミナマタの原風景を足尾問題に見すえていた。
 水俣市では、チッソ水俣工場から、有化水銀が混入した汚染水が水俣海へ排水されていたことが問題で、汚染された魚介類を食することで様々な症状が発生したのである。この地域で猫の狂い踊りがでるようになったという噂が事の始まりで、人間の最初の発症例は1953(昭和28)年末のこと。その後、年々増加し、当初は、原因の究明もままならないまま奇病、ハイカラ病などと呼ばれていた。やがて熊本大学の研究班が本格的な調査にのりだした56年から水俣病と呼ばれるようになった。
 著者の筆は、熊本県南部不知火海に面した1963年秋の漁村の記憶を呼び起こすことから始められる。かつてその漁村は、子供たちが活発に遊び、大人たちが漁に出かけた勢いがあった。が、今ではそうした動きはかき消え、全体が朽ちはててうらびれた感のたたずまいだけが残っていた。
 水俣病の多発地帯は、水俣市の中心街から南部へむかう海岸沿いの幾つかの漁民部落にある。最南端の茂道地区は鹿児島県境に接している。そして、水俣市の百閒漁港に、工場の排水口から問題の廃液が流れ出ていたのである。水俣病の発生地と患者の人生は残酷だ。平穏で平和な日常を送っていた漁村と人びとに突然忍び寄って来る恐るべき公害病。
 患者の症状は様々である。舌がもつれる人、足が曲がったまま硬直し歩行が困難な人、また、胎児性患者ともなると、重度の症状を呈し自分で食事や排泄ができない。筆者は、こうした不幸にとりつかれた一軒一軒をこまめに訪ね周り、患者と真摯に対面する。
 人びとの内奥からしぼりだされる怨嗟・悲憤・絶望的なうめき声や、神経障害を訴える患者に接する取材姿勢は、冷静かつ赤裸々で徹底している。そこには逆境の彼らを代弁し人間としての道理と正義を貫こうとの凛とした姿勢がみられる。その際、土地の人びととの会話は天草なまりの方言がもっぱらで、それを普通語でつなぐ淡々とした調べには詩情豊かな趣がある。
 第四章から七章にかけては、その随所で、水俣病の不気味な奥行をまざまざとみせつける内容がつづられ、最高の読みどころといえるだろう。中でも圧巻は、ある一家族をとりあげた四章と七章で、おざなりな言葉では形容しきれない感動的な気迫あふれる断章である。ミナマタがどのような奇病であるかを、患者の側からしぼりだす魂の叫びとして表現しているからである。
 老い先も短い老夫婦を中心にした家族がいる。息子がミナマタに罹り、9歳の孫は体重が3歳児のまま、古畳の上を這いまわる痛ましい光景が記されている。祖父母が亡くなったら一体子供たちの面倒を誰がみるのであろうか。
 やがて、貧しいながらも一家だんらんの夕食がはじまる。そして老人の長い、長い独言が開始されるのである。
 作品の表題が「苦海」と「浄土」とあるのはなぜであろうか、とふと沈思してみる。本来、漁業を生業としてきた人にとって、不知火海は、海の幸の豊かな、正に天から与えられた宝の海であった。その海が汚染され、人びとは破滅の淵に引き寄せられ、地獄のような苦海に突き落とされてしまったのである。ところが、こうした人びとの生が悲惨さだけで終わらないことを付言しておきたい。
 「あねさん、……人にゃメイワクかけんごと、信心深う暮らしてきやしたて、なんでもうじき、お迎いのこらすころになってから、こがんした災難に、遭わんばらんとでござっしゅかい」と、老爺の一人語りが「天の魚」の四章をまるまる占め、不知火海に生きる漁師の人生、その海の聖域での船釣りの日常が美しく写しとられる。
 海に出ると、苦しみを超えて生の喜びを味わえる至福が約束されている。死と近接している彼らにも、その時ばかりは、心のやすらぎと浄土の別世界が開かれるという神々しい奇跡のような瞬間で、その情景が脳裏に焼きついて離れない。あたかもそれは、津軽三味線の名手たちの弾き語りを彷彿とさせ、天草なまりのなめらかな語り口、これらに郷愁と悲愁と哀感と苦悶の色合いが立ち現われ、心から感動につまされる。
 『苦海浄土』の成功の秘密は、方言を下地に、患者や家族の日常生活を淡々と筆記する素朴な方法にあるだろう。その美しい響きを奏でる方言が一個の芸術作品を生み出したのである。
 七章になると、実に哀しい夫婦の崩壊の話になる。夫は、病に罹った妻の長い介護生活に疲れきって、家庭は崩壊、ついには離婚してしまう。終止のつかない二人の関係はドロドロとした情念で塗り固められている。
 不幸な夫婦の現状を前に、読者も同じ人間として深い痛みと同情の念をもたざるをえないはずだ。
 この小説全編には、ある特有な情緒が流れている。それは、死の悲運に貶められている人びとへの同情以上の情念で、彼らと連帯し心でつながろうとの筆者の巡礼者的な心づかいというものではないだろうか。それは、人間生命の尊厳さのにじむしなやかさ、芯のすわった精神のことである。
 そうした気概が筆者の胸中にあって、「水俣病は文明と、人間の存在の意味への問である」という信念をはきだしたのである。それは人びとと共に悩み、苦悩し、亡くなった魂を癒す行為が主体的に伴わなければならないということをさしている。サブタイトルが、「わが水俣病」とあるのは単なる便宜的表記ではなかった。ミナマタへの鎮魂の祈りが、筆者自身の体の一部、心の一部と化しているのである。
 告発という部分に焦点をあわせると、海を汚染し知らんぷりをきめこむ傲岸な大企業、原因が工場の排水にあると立証されながらも、企業と政治と行政がからまりあうことで患者の救済が進まないこと。さらに、同じ地域の住民でも心ない中傷を繰り広げる人びとを記録している。
 病に冒された患者たちは、社会と政治からも疎外される孤立な立場におかれていったのである。
 筆者はこのような現状と、人間の心の内部にひそむ愚かしい罪障とを冷静に告発・弾劾しつづけた。社会悪に対する筆者の正義感と毅然とした心根は、てらいのない自然な生のあり方であった。
 角度を変えて、豊かな詩情性に恵まれた石牟禮文学の特徴に触れておこう。現代の語り部として、水俣という土地で発生した病の実態を見事に活写して本作品を成功させたのが作家・石牟禮道子である。
 あとがきで、「自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」との記載がある。つまり、あたかも浄瑠璃を奏でる巧みな語り手を見事に演じたといえるようだ。その感懐はその他の作品を引き比べてみるとより鮮明になる。根っからの詩人・歌人として、美しい響きの方言まじりのスタイル。狂言的な用語を駆使した
情緒的な会話。平安の王朝の世界へまぎれこんだかのような芸術的空間は、「十六夜橋」「不知火」「はにかみの国」を著わし、多くの詩、短歌、エッセーで独自の世界を記している。
 ミナマタの名は、公害病とともに、世界にむかって発信された。その起爆点となったのが、この病の恐るべき実態をあからさまにした石牟禮道子の『苦海浄土』である。ミナマタ病の発生当時はそうでもなかったが、現代では、公害は、文明の進歩と隣り合わせの身近な事柄となった。戦争の悲惨さがそうであるように、ミナマタの悲劇を過去の痕跡として風化させてはならない。
(2020年2月10日付760号)