イスラム神秘主義、スーフィズム
カイロで考えたイスラム(15)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉
古典スンニ派思想は、イスラム思想史上最大の思想家とされるガザーリーの出現によって完成したとされる。彼の思想に重大な影響を与えたのが、スーフィズムと呼ばれるイスラム神秘主義である。以後、3回にわたりスーフィズムの流れを紹介しよう。
スーフィズムについて井筒俊彦氏は「愛欲煩悩に縛られた現世の生活から離れ、罪悪深重の我に対する懺愧痛恨の裡にこの世の一切の桎梏を断って、人里離れた山野に隠栖し、厳粛な規矩制戒によってひたすら永遠の世界を求め、霊魂の救済を獲ようとする隠遁者の生活様式を意味するもの」で、原意は修道苦行の道だったとした。
それがアッバス朝前期に新プラトン思想やグノーシス的秘儀宗教、インドの宗教哲学、仏教などの影響を受けて、行者たちが体験を理論化、行を転じて知となし、思想的に発展するようになったと分析している。
終末的ビジョンから始まったイスラム教が、どこで神秘主義と交わるのか? 井筒氏は以下のようにその出会いをまとめている。預言者ムハンマドの宗教活動の前半期の章句を根本的に特徴付けているのは、「審判の主」に対する深い懼れの情である。即ち「主のみ前に震え、おののく者こそ真の信者」で、そこでは正義の神に対する「恐怖」と「信仰」とは同じ意味に使われていた。「神の審判は近付いた、もし人が罪悪深甚な自分に気付いて一刻も早く悔悛することを忘れ、浮かれ騒いで空しい日を過ごして行くならば、正義の神は突如として激怒の一撃をその頭上に下されるであろう」
このような見地から、ムハンマドが最も激しく非難詰問したのは、物質的快楽の追求だけに専念し、自己の霊魂の救済をいささかも顧みようとはしない人々だった。コーランの初期の有名な章句57章20節では「よく聞くがよい。現世の生活はただ束の間の遊びごと、戯れ事、徒なる飾り、ただいたずらに血筋を誇り合い、形見に財宝と息子の数を競うだけのこと。現世とは、雨降って緑草萌え、信なき者ども喜ぶと見るまにたちまち枯れ凋(しぼ)み、色褪せて、やがて跡なく消え去るにも似る」とある。現世のはかなさを知らず、物質的快楽に価値を見出しているような人々に対する激怒だった。
ところがムハンマドが西暦622年にメディアに移動してからは、イスラム教を取り巻く環境が好転し、ムハンマド自身が意外とするほどにイスラム教は急速に隆盛の一途を辿り始める。それに従い、啓示の内容も次第に積極的現世肯定的となり、さらには政治的性格すら帯びるようになった。荒涼たるアラビア砂漠に発生した一宗教が、100年もたたずして、西部アジアの主要な文化諸国をことごとく席巻し、ついにサラセン大帝国を形成したのだ
この武力征服成功の後を受けて西暦661年、シリアの都ダマスカスに成立した最初のウマイヤ朝は、その精神において物質主義的、現世的であり、人々は享楽主義的であった。宗教は外面の儀式となり、人々は神への懼れを忘れ、ひたすら現世の快楽を追い求める有様だった。世界的文化となったことで、いよいよ現世的になったのだ。
この時、伝統的な信仰心を持ち、あさましい世の成り行きを、激しい怒りをもって見守っていた敬虔な人々の間に、期せずして精神主義運動が起こった。これが来世主義で、地上の栄耀栄華を嫌気し、世を遁れ、山野に隠れ棲み、永遠なるものを求め、密かに禁欲苦行の生活をするようになる。イスラム神秘主義の始まりだった。
反世俗的精神主義の運動は、ウマイヤ朝の初期、イラク地方、ことにクーファの都を中心に発展し、多くの行者が出現する。当時は修道院制度もなく、修道生活の基準も確立されていなかったが、内面的にはコーランの教えのままに審判の日を懼れ、罪悪の意識、神の意思に対する無条件の服従を特徴としていた。
ところが、イスラム諸国の都市の生活が物質的、現世的になり、ウマイヤ家が滅び、アッバース家の時代に入っても、権力闘争や社会の腐敗が絶えなかったことから、数千人の男女が、来るべき神罰の恐怖に駆られ、続々と世を捨て、隠遁
生活に入った。この頃には修道生活がようやく組織化され、一定の修行道ともいうべきものが確定される。その組織化に大きな貢献をしたのはキリスト教の修道者たちであった。
スーフィーという名称がイスラムの隠者たちに適用されるようになったのはこの頃で、アラビア第一の歴史家として有名なイブン・ハルドゥーンは「歴史学序説の第一節で、回暦第二世紀に入り、現世の愛が世を支配し、大多数の人が現世の流れの大渦巻きに巻き込まれて行った時、かえってある人々はこのような現世的快楽の無意義を痛感し、身を引いて敬虔な勤めに専念するに至った。かかる人々を世にスーフィーと呼ぶ」と言っている。
スーフィーが本格的に組織化され始めたのは8世紀末で、ところはクーファとその付近一帯である。彼らの生活は禁欲的修行道の実践で、世俗的要素を脱ぎ棄て、いわば素っ裸になって神に面し、肉欲・情欲の誘惑を退けることによって現世の罪のわなを超絶しようとする、否定道の実践だった。
(2019年5月10日付751号)