修道院運動による信仰の純化

キリスト教で読み解くヨーロッパ史(7)
宗教研究家 橋本雄

モンサン・ミッシェル
 ヨーロッパを旅すると、一度は修道院を訪ねてみたくなる。パリから観光バスで西に3時間と少しのところにモンサン・ミッシェルがある。カトリックの聖地として有名な、海と泥の中に立つ修道院である。
 8世紀に天使ミカエルの啓示で教会が建てられ、さらに10世紀に修道院が設けられてからは、文字通り「歴史の波と泥」の中で存在してきた。大天使ミカエルが、西北の位置でフランスを守っているのだという。ドーバー海峡の対岸の国を想定しているのか?
 オーストリアにはドナウ川を見下ろす場所に、美しいバロック建築のベネディクト派メルク修道院がある。その壮麗さと芸術性の高さは必見だ。
 モスクワ市内には1524年に建てられたノヴォデヴィチ女子修道院がある。喧騒のモスクワ市内にあって静かで厳かな修道院は、疲れた観光客をしばしホッとさせる。
 隣接の墓地はフルシチョフやエリツィンをはじめ多くの有名人の墓石が並んでいる。修道院横の池では、チャイコフスキーが「白鳥の湖」の着想を得たという。しかし、「この池に白鳥が来たことがなく、鴨しかいない」と案内人が言っていた。鴨を見て白鳥を連想したのであれば、芸術家の想像力は凄まじい。
 アイルランドの厳しい自然の中に立つ質素な修道院遺跡を見ると、修道生活の苦難が偲ばれる。
 忘れられないのは、モルドバにあった断崖絶壁に穴を掘った修道院。一つの入り口を塞げば他者の侵入を許さないし、内部からの逃亡もできない。侵入してきたイスラム軍も攻撃できなかったという。そこで会った修道士には、「今の時代にこんな人物がいたのか」と驚かされた。
 修道院運動はヨーロッパの各地に生まれ、キリスト教の歴史上、重要な役割を担ってきた。
 本来、修道院は純粋な信仰生活を求める場所であったが、それだけではなく、聖書の転写や翻訳などキリスト教文化、学術発展の担い手でもあった。さらには、貧民救済や医療奉仕、薬品の研究をはじめ、自給自足であったために地域の開墾と農業指導、様々な技術革新などの社会奉仕を行ってきた。
 正教の修道院ではイコンの制作が修道士の重要な仕事であった。人々の暮らしを向上させるあらゆるものが修道院から出発した、と言って過言でないくらいだ。
 戦時には砦としての役割を担ってきたので、修道院の頑強さは驚くほど。ノヴォデヴィチ女子修道院も、過去にはモスクワ防衛の最前線でもあった。悪魔との戦いという意味もあるのだろう。
 東西ヨーロッパで修道院が社会に与えてきた役割は計り知れない。ヨーロッパのキリスト教を知る上で、修道院は決して見過ごすことができないのである。

修道院運動の起源
 多くの宗教は社会的に拡大し信徒が増えれば、やがては世俗化し腐敗してきた。すると、より純粋な信仰と高い霊的生活を求めて、世俗を離れる信仰者が現れる。都市での世俗化した信仰を嫌い、人里離れたところで修行を積むようになる。どの宗教でも同じだろう。
 特にキリスト教では、開祖のイエスが苦難の生涯の果てに殉教をしたために、イエスに対する信仰と敬慕の念から、苦難と殉教の道を求めるようになった。しかし、初代キリスト教会時代の313年にキリスト教が公認されると、殉教の時代は過ぎ去ってしまう。そこで、「生きて殉教の道」を求める修道生活が生まれたという。
 古代教会時代、砂漠や洞窟、断崖絶壁の中で修道生活をする者が現れた。柱を立て、その上で修道生活をする「柱上の修道者(隠者)」もいた。一般的にキリスト教修道院運動の起源は4世紀のエジプトとされるが、それ以前から隠者の生活はあった。
 やがて修道士が共同生活をする形式に発達し、5世紀には北ヨーロッパのアイルランドでも修道院運動が定着している。その後、西ヨーロッパにも修道院運動は拡大し、中世のヨーロッパで強大な力を持つ運動へと変貌を遂げていく。
 朝の起床から夜の就寝に至るまで、祈りと奉仕の規律ある生活。独身を守り、出来るだけ世俗とのかかわりを避ける日々が続く。生活の全てが神とキリストへの献身と人々への奉仕である。
 どうして厳しい生活に身を置くのか、何を求めているのかは、俗人には分からないかもしれない。召命感を持ってきた者、社会や組織から追放された者など様々な人々に、修道院は門を開いてきた。修道院は多様な人々を受け入れてきた懐の深さがある。
 世俗の煩いが少ない分、学術や諸々の研究に集中できたのかもしれない。修道院の歴史もまた腐敗や世俗化との戦いであったが、魂と信仰の純化に生涯を捧げた人々がいたことは、キリスト教にとって幸いであった。

10人の正しい者
 創世記18章に、淫乱と腐敗の街ソドムとゴモラを滅ぼすことを主張する神に対して、アブラハムがとりなしの問答をする場面がある。神は「正しい者が10人いたら滅ぼしはしない」と約束するが、結局ソドムとゴモラは汚名を残して審判の火と硫黄で街も人も焼かれてしまう。(創世記19章)
 ヨーロッパの修道院運動はその「正しい10人」であったのかもしれない。純粋な信仰を求めた彼らがいたので、様々な腐敗、淫乱、殺戮が溢れても、ヨーロッパは発展し続けてきたと言えよう。
 ソドムが滅ぼされる時に、アブラハムのおいロトと家族が救われ避難するが、脱出の際「決して振り返ってはいけない」と言われていたのに、その禁を破って塩の柱にされてしまったのがロトの妻である。修道士も一旦修道院に入ったら、過去を「振り返ってはいけない」。そんな修道士を多く生み出してきたのがヨーロッパのキリスト教である。
(2019年4月10日付750号)