啓示の暗唱と伝承、文字化

カイロで考えたイスラム(4)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

 ムハンマドが啓示を受け始めた六一〇年から没する六三二年までの二十二年間、断続的に神から啓示された内容を記したのがコーランだが、書物としてまとめられたのはムハンマドの存命中ではない。同師の死後、コーラン暗記者が戦争などで死亡するに及び、記憶が消失したり、曖昧化、分散化、散逸化することを懸念して文字化が行われ、コーランが成立したのである。
 青柳かおる氏の『面白いほどよくわかるイスラーム』(一一二~一一三ページ)によると、ムハンマドの死後、アラビア半島の遊牧部族が税の納入拒否を言い出し、イスラムから離反したことから、背教者(リッダ)戦争が勃発した。この戦いで多くのコーラン暗記者が戦死したため、このままでは啓示が散逸してしまうという危機感が募り、ムハンマドの書記だったザイド・イブン・サービドが責任者となって書物をまとめた。これが行われたのが初代カリフ、アブ・バクルの時代(在位:六三二~六三四)で、コーラン編纂の第一回とされる。この書物は、第二代カリフ、ウマルの娘のハフサ(ムハンマドの妻の一人)が保管したとされる。
 第二回の編纂は、第三代カリフ、ウスマーン(在位:六四四~六五六)の時代に、イスラム教の支配地域が、エジプトやシリア、イラクなどへと拡大するに及び、方言の違いなどから、コーランの読み方に異同・混乱が生じたことにより、再度、ザイド・イブン・サービドが責任者となって、クライシュ族の方言に従ってまとめたもの。「ウスマーン本」と呼ばれる標準版が編集されたのだ。ただ青柳氏は、「文献学的に現在のコーランが成立した時期を特定することは難しい」(一一三ページ)と指摘している。
 ムハンマドの言行録「ハディース」は、ムハンマドの死後、二百年から三百年も経過してから編集作業が始まったことから、捏造や創作が指摘され、近年その信憑性が問題になっている。ハディースは元々数十万もあったとされ、九世紀の中頃、法学者シャーフィーイによってイスラム法の法源と規定されたことから重要性が高まり、収集活動が本格化し、数千の信頼できるハディースが精選された。
 青柳氏によれば、九世紀後半から十世紀にかけて、信頼できるものとしてスンニ派の六伝承集が権威を持つようになる。それは、ブハーリーとムスリムが編纂した二大「サヒーフ(真正集)」と、イブン・マーシャ、アブー・ダーウード、ティルミズィー、ナサーイが編集した四つの「スナン(スンナの複数形)」である。
 なお、シーア派はスンニ派とは異なるハディース集を編纂しており、ムハンマドだけでなく歴代イマーム(シーア派指導者)の言行録も含んでいる。十世紀半ばから十一世紀半ばに、シーア派(十二イマーム派)の四大伝承集が編纂された。
 ムハンマドに啓示された内容は、終末の到来や、その時に行われる最後の審判、現世での行為がアッラーにより裁かれる恐ろしさで、その裁きから逃れるには、「貧者や寡婦の救済、富の独占の禁止、道徳の確立、部族間紛争の終焉、忌まわしい因習の廃止など、旧体制の崩壊を促し、新秩序の確立を促す内容を持っていた」(渥美堅持著『イスラーム基礎講座』一三〇~一三一ページ)。そのため、メッカでの活動が激しくなるにつれ、ムハンマドと同族のクライシュ部族によるイスラム教徒に対する迫害は激しくなり、教団存続の危機に直面した。
 一方、メッカから約四〇〇キロ地点のメディナでは、住民は部族間の対立に悩んでおり、ムハンマドが主張する教えが、その問題解決に役立つことを確信したメディナの一部住民の有志(イスラム教徒ら)が、ムハンマドを解決者として招き入れる準備を進めていた。そこで一行はメディナへの移住を決断、六二二年七月十六日に一行は密かにメッカを離れてメディナに向かった。この日がその後、イスラム暦元年となる。
 メディナの有志がムハンマドを招いた目的は部族主義の破壊であり、古い価値観の破壊と新しい価値観の樹立だった。それに完璧に応えたのがイスラム的価値観だったわけだ。「全てのイスラム教徒は、同じ法の下で生活を営み、かつてのような貧富の差はなくなリ、恩恵は公平に分配され、悪しき因習は葬り去られ、部族の一員であるという自覚よりも、イスラム教徒であるという自覚の方が強く感じられるようになっていく。即ちそれは、それまであった部族主義を破壊し、イスラム教徒としての意識が先行、超部族意識としてのイスラム意識が定着、確
立したことになる。規模は小さいながらも、まさにイスラム法による新秩序が確立され、イスラム社会が実現し、イスラム革命が成立した、とも言えるだろう」(前掲書一四二~一四三ページ)
 新たな連帯意識と経済的繁栄によって強力になったイスラム教集団は六三〇年、一度追い出されたメッカを攻略、征服した。
 メッカ軍との戦争が終結し、メッカを無血開城してカアバ神殿をイスラムの中心に据えた後、ムハンマドは「これで小ジハード(外的戦い)は終わった、これからは大ジハード(心の中での戦い)に邁進するように」と信者たちを諭したとされる。ジハードについては、また別に論じることにする。
 その後ムハンマドは、メディナにおいてイスラム法の番人として、神の命に即した判断を下し、法治国家として当地方を統治した。しかしイスラム教において重要なことは、この世界を統治する者は、預言者ムハンマドでもなければ、クライシュ族でもなく、「神が統治者だ」ということで、この基本的な統治原則は、二十一世紀の現代まで継承されているイスラム世界の大原則となっている。(前掲書一四六ページ)
 ムハンマドは、メッカ征服二年後の六三二年六月九日の朝、愛妻アイーシャひとりに見守られながら逝去した。享年六十二だった。
 話は前後するが、メッカ時代の末期、クライシュ族による迫害の中、ムハンマドの保護者であった叔父アブ・タリブが死に、最愛の妻であり、全イスラム教徒から敬愛された妻ハディージャも亡くなり孤独の絶頂にあった時、ムハンマドは不思議な体験をする。有名なエルサレムへの夜の旅だ。このことはコーラン第十七章「夜の旅章」に詳細に述べられている。「イスラム教徒がエルサレムを聖地と主張する根拠ともなり、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教の関係性を示しているものとしても極めて重要とされる」(前掲書一三四ページ)
 聖クルアーン(宗教法人日本ムスリム協会発行)第十七章の「章の説明」には、以下のように書かれている。「さて本章冒頭の聖預言者ムハンマドの夜の旅は、聖遷(ヒジュラ)前年(六二一年)の七月二十七日の夜、マッカの聖なるマスジドから、天馬に乗ってエルサレムのマスジドに到り、そこから昇天。第一天においてアーダム(アダム)に会い、第二天でヤヒヤー(ヨシュア)とイーサー(イエス)に、第三天ではユースフ(ヨセフ)に、第四天でイスハーク(イサク)に、第五天でハールーン(アロン)に、第六天でムーサー(モーセ)に、第七天ではイブラーヒーム(アブラハム)に会った。その案内役の天使ジブリール(ガブリエル)は、それから先に進むことを許されなかったが、聖預言者は更に進んで荘厳な主の玉座に達して親しく御言葉を賜り、一日に五回の礼拝をささげることにつき、御赦しをえたといわれる」と。
 その時受けた御言葉の内容は、「両親と子女間の正しい互恵的あり方、世人に対する懇切、異常な事態に対処する勇気と堅固さ、個人的責任の自覚、礼拝と唱念により不断にアッラーの御前にあるような感覚の涵養、などにつき教えられる」とある。
 ムハンマドは再び天馬に乗り、天使に伴われて、その夜のうちに自分の寝室に戻ったという。
(2018年5月5日付736号)