東アジアに徳治と対等の秩序を

2018年5月20日付 737号

 北朝鮮の金正恩委員長が核とミサイルの瀬戸際外交から微笑み外交に一転し、ディール(取り引き)に強い自信を持つトランプ米大統領が史上初の米朝首脳会談に応じたことから、朝鮮半島は目が離せない状況になった。日本では、頭越しの米朝、中韓交渉で、日本が置き去りにされかねない懸念と、拉致問題解決への糸口になるとの期待が交差している。
 こうした目まぐるしい状況に際しては、歴史を俯瞰し、長期的な視野から問題の本質を見極めることが重要である。そこで、明治六年の征韓論論争で下野した西郷隆盛が今いれば、どう対応したか考えてみた。大河ドラマ「西郷どん」では終盤になろうが、西郷の征韓論がどう描かれるかが大きなポイントになろう。

征韓論の真相
 韓国では西郷は武力による侵略を意図していたと思われているが、近年の研究では、西郷が目指したのは中国、韓国、日本の三国連携による欧米列強への対抗であったことが明らかになっている。
 板垣退助らの強硬な征韓論は文字通り軍事侵略なのだが、西郷はそれを防ぐため、自ら使節となって朝鮮に渡り、もし自分が殺されたら、それを口実に軍事を行使すればよいとした。それは、過剰な征韓論を鎮静化させるためで、西郷の教養や思想、戦争の仕方から見て、朝鮮への軍事侵略を意図したとは思えない。
 そもそも島津斉彬が盛んに振興していた薩摩の貿易は、琉球経由の明やフィリピンが中心で、朝鮮はごくわずか。朝鮮のことが念頭から離れなかったのは長州で、幕府の征伐を受けた時、長州が敗れたらどうするかと聞かれた高杉晋作は、藩主と共に朝鮮に渡ればいいと答えている。そうした地理感覚から、吉田松陰の朝鮮支配説も出てきたのである。明治の元勲では、木戸孝允、山県有朋らが最も征韓論者であった。
 ところで、ここにきて金正恩氏が頻繁に訪中していることから、陰で糸を引いているのは中国ではないかとの不安が高まっている。そうだとすれば、最悪のシナリオは、北朝鮮主導で半島が統一され、核を保有した人口七千五百万の国が出現することである。
 古代から近世まで、東アジアにあった外交関係は中国を頂点とする華夷秩序で、朝鮮は中国の冊封を受け、日本(倭国)も邪馬台国、倭の五王などが冊封を受け、中国に対し臣下の礼を取っていた。日本は聖徳太子の時代から冊封を受けなくなり、やがて小中華思想が芽生えるようになるが、例外的に室町時代の足利義満が日本国王と称して明の冊封を受けたことがある。
 対等な国際関係は西欧で生まれたもので、それは列強間だけの秩序だが、明治維新を経て日本もその世界に登場していく。その過程で問題になったのが朝鮮で、当時は清の属国だったが、南下を狙うロシアが朝鮮を支配することを、明治政府は最も恐れていた。
 ロシアの侵略を許さない強固な政権が朝鮮にできればいいのだが、朝鮮の歴史を見ると、内紛に外国勢力を巻き込むのが同国の常だった。秀吉の朝鮮出兵に対し、明に軍隊の派遣を要請したのもその一例で、そのため明は朝鮮の頭越しに日本と交渉するようになる。
 明治の日韓関係を混乱させた一因は、日本の影響を排除するため、清やロシアの力を借りた朝鮮国王の姿勢にあると言えよう。幕末の日本が、国内戦争に介入しようとした列強を排除したのとは対照的である。幕府がフランスの、薩長がイギリスの力を借りていたら、植民地にされはしなくても、見返りに香港のような治外法権の土地ができていたであろう。

日本の役割
 西郷が明治新政府に失望したのは、理想とする徳治は行われず、戊辰戦争の論功行賞のような人事がなされ、上層部は大名屋敷に住み、贅を極めていたからである。民のための政治を志した西郷にとって、それは見たくもない現実であった。
 人類が歴史を通し求めてきたのは、徳治が行われる国と対等な国際社会である。その理想に照らし、内外の現実を判断し、少しでも前進させなければならない。中国は古代から徳治を説きながら、それが実現されたためしはなく、むしろ、夷狄とされた日本の方がより平等な社会を実現している。百五十年前と同じように、西洋と東洋の中間にある日本は、両者の理想を東アジアに実現する役割があるのではないだろうか。