朝鮮通信使と雨森芳洲

上垣外憲一・大妻女子大学比較文学部教授

江戸時代の日朝「誠信の交わり」

 昨年十月、「朝鮮通信使」の記録がユネスコの世界記憶遺産に登録された。朝鮮通信使は室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮王朝(李氏朝鮮)から日本に派遣された外交使節団で、とりわけ江戸時代の約二百年間に十二回続いた歴史は、両国の友好親善を象徴するものであった。江戸まで通信使に随行したのが対馬藩の儒者・雨森芳洲で、朝鮮の書状官(書記官)・申維翰との友情は日韓交流史に特筆される。ソウル大学に留学して日韓古代史に詳しく、『雨森芳洲』(中公新書)でサントリー学芸賞を受賞した上垣外憲一教授が、朝鮮通信使の現代的意味について語った。(五月九日、NPO法人にっぽん文明研究所の後援による東京・新宿区の会場での講演より)

上垣外憲一氏

韓国語学ぶ学生が増加
 私は大妻女子大で比較文学のほかに韓国語も教えています。近年、日韓関係は悪化していますが、今年は韓国語を専攻する学生が大幅に増え、これまで百五十人のうち約十五人だったのが三十七人になりました。学生たちに韓国語を選択した理由を聞くと、中学生のころK―POPにはまっていたからというのが圧倒的で、新聞など読まない彼女らはマスコミ報道に影響されないのです。
 政治や経済だけが日韓関係ではなく、文化交流では韓国はいい国です。彼女たちはアルバイトでお金を貯めて週末にはソウルに行っています。現実の日韓関係を生きているのであり、とてもいいことだと思います。何事も一つの方向からだけ見てはいけないわけです。
 二〇一三年、朴槿惠氏の韓国大統領就任式に出席した麻生太郎副総理が青瓦台で朴大統領と会談した折、大統領は「両国は和解と協力という未来を目指さなければならないが、今も歴史問題などの懸案が両国の関係発展を妨げているので、真の友好関係を構築するためには歴史を直視し、被害者の苦痛を理解する必要がある」と述べたのに対して、麻生氏は「韓国には韓国の歴史観があり、日本には日本の歴史観があって、違っていて当然だ」と応じました。
 日韓の歴史観が違うのはその通りですが、共通点がないと対話が成り立ちませんし、そもそもそんな話を持ち出すべきではなかったと思います。日本と韓国は、問題を抱えていても基本的には友好国ですから、友好的に話を進めるべきです。
 麻生氏の話に怒った朴氏も問題です。彼女は国家元首なので、相手が何を言おうと、ユーモアで切り返すようにしてほしかったと思います。安倍総理が朴氏に早期に謝罪していれば、あれほどの悪化は防げたと思いますが、それもなかったので、結果的には以後、日韓関係は悪化の一途をたどりました。
 こうした現状を念頭に置きながら、朝鮮通信使の歴史を振り返りたいと思います。
 
東アジアの国際秩序の中で
 朝鮮通信使が派遣されたのは、日本と朝鮮が友好関係にあったからです。江戸時代には、慶長十二年(一六〇七)の第一回から第三回までの「回答兼刷還使」を含め、朝鮮王朝から十二回の通信使が派遣されました。主には将軍の就任を祝う祝賀使節です。
 日本と朝鮮が最も平和だったのは江戸時代中期の十八世紀で、寛延元年(一七四八)の第十回通信使が江戸市内を通る絵が描かれています(羽川藤永筆「朝鮮通信使来朝図」)。中央の輿に乗っているのが正使で、朝鮮国王の代理です。江戸の人たちは着飾って一行を見物していて、外国使節を尊敬し、歓迎しているように見えます。
 当時、日本に来る外国の使節は朝鮮だけで、琉球も外国とされていましたが、実質的に薩摩藩が支配していたので属国扱いでした。それに対して朝鮮は日本と対等の国で、正使は朝鮮国王の代理なので、一般の日本人にとって尊敬の対象になります。遠景に描かれている富士山からは、少しナショナリズムが感じられます。
 通信の「信」は中国語で手紙のこと。朝鮮国王が徳川将軍に宛てた手紙「国書」は、通信使一行の中で一番大事ですから、正使より立派な輿に載せて運ばれます。
 朝鮮では江戸時代、日本側の主権者は徳川将軍とされていました。形式的には京都の天皇が日本国の主権者で、朝鮮もそれは知っていたのですが、それを問題にすると面倒なことになるので、知らないふりをしていました。実際に日本を統治しているのは徳川将軍なので、事実上の日本国王として、朝鮮国王と対等だとしていました。
 東アジアの儒教文化圏では、対等な国際関係を「交隣」と呼んでいました。その関係は朝鮮通信使の派遣が始まった室町時代から同じで、朝鮮国王と足利将軍が対等な関係を結んでおり、徳川幕府はその形式を踏襲したのです。
 東アジアでは伝統的に、最高の権力者はただ一人、中国の皇帝でした。国王は皇帝より下位にあり、朝鮮国王は中国皇帝の臣下です。中国皇帝が朝鮮国王に命令することはほとんどないのですが、命令があると従わなければなりません。朝鮮国王が亡くなり、次の国王が王位を継承するときには、中国皇帝の認可が必要でした。琉球王国でも同じで、王位継承に際して、中国から次期国王を任命する使者の冊封使(さくほうし)が、皇帝の詔書を持参して来ます。冊封とは皇帝と主従関係を結ぶ外交のことで、その証書を受け取ることで、正式な国王として認められるのです。
 古代から近世まで、東アジアには中国を頂点とする華夷秩序の外交関係があり、周辺諸国は代々、中国の冊封を受けていました。日本(倭国)も邪馬台国、倭の五王などが冊封を受け、中国に対し臣下の礼を取っていましたが、聖徳太子の時代から冊封を受けなくなります。これは、東アジアでは非常に珍しいことです。
 例外は、室町将軍の足利義満が日本国王を名乗り、明の冊封を受けたことです。義満は明に朝貢することで、明との貿易を行っていました。明は外国に対して、それ以外の貿易関係を認めていなかったからです。
 室町時代の通信使は倭寇対策を日本に要請するのが目的で、日本の国情視察も兼ねていました。当時、日本と朝鮮は対等で平和的だったのですが、戦国時代になると外交関係が途絶えてしまいます。
 織田信長の後を次ぎ、九州を平定した豊臣秀吉は、明国への侵攻を企て、その通路である朝鮮に協力を求めるため天正十五年(一五八七)、対馬の宗義智に朝鮮国王の来日交渉を命じます。宗義智は秀吉による天下統一の祝賀使節の派遣を朝鮮に求め、同十八年に通信使が派遣されます。
 来日した通信使の名目は祝賀ですが、真の目的は日本の朝鮮侵攻の真偽を確かめることでした。しかし、対立関係にあった正使の黄允吉と副使の金誠一が帰国後、異なる報告をしたため政争となり、結局、侵攻への備えを怠ってしまいます。そして秀吉の朝鮮出兵が、東アジアの国際秩序を壊してしまいました。
 当時、秀吉は関白で、明国の皇帝に代わって自分が皇帝になろうとしていたので、朝鮮国王は格下だと考えていました。ですから、非常に無礼な書簡を朝鮮国王に送ります。朝鮮国王の称号は殿下で、陛下ではありません。陛下は皇帝にしか使えない称号です。
 こうした称号は、明治になって西洋の儀礼が入るとかなり混乱します。私が小学生の頃、読んだ、イギリスが舞台のマーク・トウェインの児童文学『王子と乞食』では、国王陛下と書かれていました。東アジアの称号では国王は殿下です。日本の天皇の称号が陛下なのは、戦前の大日本帝国の主権者は皇帝だったからですが、戦後は帝国ではなくなったので、皇の字を使い、陛下と呼ぶのは厳密に言えばおかしいのです。
 天皇の英語はエンペラーですが、大英帝国でなくなったイギリスの国王はキング、女王はクイーンです。儒教的な格式で言えば、帝国でない日本の天皇はキングになります。帝国とは属国を従えている国ですが、今の日本はそうではありません。
 
通信使の編成と行路
 朝鮮の首都漢城(今のソウル)を出発した通信使一行は、釜山まで陸路を行き、そこからは海路で対馬、壱岐に寄港し、馬関海峡を経て瀬戸内海に入り、鞆の浦、牛窓、兵庫などに寄港しながら大坂まで進みます。そこで川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、淀で上陸します。そこからは輿と馬、徒歩で陸路を京都を経て江戸に向かいます。
 京都に泊まりますが、天皇との会見はありません。当時の朝鮮は清国に朝貢していますから、皇帝のような天皇が日本にいるのは不都合なので、知らないふりをしていました。朝鮮人は理に合わないと議論するのが好きですが、この問題を議論しだすと外交関係が破綻しますので、口をつぐんでいたのです。天正十八年(一五九〇)に来日した通信使は、京都に天皇がいることを知り、「偽皇」と記録に書いています。それを誤魔化していても、往来が少なく、対馬を介した交易があるだけでしたので、問題は表面化しませんでした。明治になって、征韓論が政治上の大問題になる遠因は、そこにあります。
 近江国では東海道ではなく、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が通った琵琶湖沿いの道(今の野洲市から彦根市まで)を通行しています。大名行列の往来も許されなかった街道で、この道は今も「朝鮮人街道」と呼ばれています。その道を選んだのは、琵琶湖の風景が美しかったこともありますが、朝鮮にはこれほど大きな湖はないだろうという、富士山を見せるのと同じナショナリズムのように思えます。木曽川を渡るのは船ではなく、船を並べた上を橋のように通っています。これは幕府が天皇の勅使を迎えるときと同じで、最高級の待遇です。
 富士山を「三国一の山」と呼んだのは、中国、朝鮮、日本の中で最も高い山という意味です。中国の崑崙山は標高五千メートル級で富士山より高いのですが、漢民族は住んでいません。中国一の山は山東省にある泰山(たいざん)で、約千五百メートルです。朝鮮の最高峰は中国との国境にある白頭山で、約二千七百メートルです。ですから、通信使が来ると富士山を見せようとしました。葛飾北斎は宿場町の原で通信使が富士山を見上げている絵を描いています。
 そんな日本人の主張に対して理屈っぽい朝鮮の使節は、朝鮮には金剛山という名山があると応じています。高さは約千メートルですが、姿が優れているというのです。金剛山は典型的な水墨画の岩山の風景で、朝鮮では随一の風景とされています。そこで、山として富士山と金剛山はどちらが優れているかという論争があったりしました。半分は遊びで、優劣を競うことではありません。
通信使一行と日本人
 通信使の編成は正使・副使・書状官の三使から成り、とりわけ書状官は漢文の名人でした。当時、日本人も漢文を学んでいたので、多くの人が通信使の宿舎に押しかけ、漢文で筆談をしていました。そうした筆談録が出版され、写本も多く残っています。それらも重要な記憶遺産で、日朝友好の記録です。
 寛延年間の通信使に託した朝鮮国王の国書には、徳川家重の将軍就任への祝意と、これからも友好を保つことが記されていました。祝賀使節を派遣する裏の理由は、日本が戦争を仕掛けてこないことの確認でした。朝鮮の外交官が江戸に、日本の外交官が漢城に駐在しているわけではないので、朝鮮は日本の事情を探りようがないわけです。日本の情報は対馬藩を介して入って来るだけです。貿易は対馬と釜山の間で行われていて、朝鮮の商人は釜山に設けられた草梁倭館で交易をしていました。長崎にも来ないので、日本の情報を直接確かめるのは、通信使が訪日した時だけだったのです。
 朝鮮通信使は日本で見聞したことを記録に残し、帰国後は朝廷に提出していました。来日する通信使は前の通信使の記録を読み、それに積み重ねる形で日本の情報を蓄積していたわけです。江戸時代中期になると、安全なのに決まっていると記されるようになります。それほど警戒心はないので、通信使たちは極めて友好的でした。
 ただし、日本がどうなるかは将軍次第なので、次期将軍がどんな人物かに関心がありました。ですから将軍に直接会い、国王の書簡を渡し、返書をもらうのです。日本も、通信使を受け入れることが、朝鮮と友好を保つことの意思表示になっていました。友好を確認することが通信使派遣の最大の理由です。何かの外交交渉をするわけではないのですが、そのことが重要で、今の国賓を迎えての宮中晩さん会と同じです。
 朝鮮通信使の一行には楽隊や料理人、画家なども含まれていました。童子を交えた楽人たちが披露した踊りが、通信使が通過した各地に残されていて、これらも無形の記憶遺産と言えます。岡山県の牛窓は潮待ちの船の寄港地で、鮮やかな色彩の衣装を着た二人の男児が、小太鼓や横笛と意味不明の歌に合わせて踊る「唐子踊り」が残されています。
 文書の記録として一番有名なのは、享保年間の通信使の書状官として来日した申維翰が残した『海游録』です。内容は、日本の自然から物産、文物、制度、人情、世相、風俗の観察から、雨森芳洲や大学頭林信篤などとの筆談まであり、当時の日本を知る上でも貴重です。『海游録』は文学的にも優れていて、原文は漢文ですが、姜在彦氏の訳で平凡社の東洋文庫に収録されています。
 静岡市清水区にある清見寺は、朝鮮通信使の宿舎に使われた寺です。東海道の由井の宿場あたり、海に近い景勝地で、平安時代から「清見潟」が歌枕になり、西行も「清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり」と詠っています。
 清見寺は鎌倉時代から重要な禅宗の寺で、鎌倉五山と京都五山を往復する僧が必ず泊まっていました。今川氏の人質となった少年時代の徳川家康も、この寺で勉強しています。
 清見寺には朝鮮通信使の書や文書、優れた書を板に彫った扁額が多数あります。私は同寺で、江原道の東海岸の景勝地にある洛山寺の絵を見たことがあります。新羅時代に、高名な僧侶・義湘によって創建された名刹で、山が海に迫っているところに寺があるのは清見寺と同じです。韓国一の景勝地とされる雪岳山のふもとにあります。
 寺の名前を付けた洛山寺ビーチは韓国一の砂浜で、私も泳いだことがあります。通信使が清見寺の風景を見て、朝鮮の洛山寺に似ていたことから、一行の画員に描かせたのだと思います。通信使は絵の交流もしていました。
 日本の水墨画は雪舟の絵のように硬い感じのものが多いのですが、中国南部の江南で発達した南画は、やわらかいタッチの絵です。山も遠くでぼんやりと描かれているのは、湿気の多い江南だからです。その南画が、日本では江戸時代後期に流行します。
 文献には、朝鮮通信使から南画の書き方を学ぶと書かれています。南画の描き方を知っていた画員から教わったのでしょう。池大雅も、富士山を南画風に描くにはどうしたらいいか質問しています。これも文化交流の一コマです。
 朝鮮通信使の一行は二百人以上いて、文学に優れた人や楽人もいます。日本人に人気があったのは、馬上才という馬に乗って行う曲芸です。重要な外交課題がなかったので、文化交流が主になり、その意味では通信使は総合的な文化使節団と言えます。両国が平和で深刻な外交課題がないからこそ、文化交流が盛んに行われたのです。もっとも、文化交流をしていれば平和になるとは、私は思いません。
 こうした朝鮮通信使のことを苦々しく思っていたのが、国学者で医師の本居宣長です。もう一人、六代将軍・徳川家宣の侍講として幕政を主導していた朱子学者の新井白石は、主に財政上の理由で通信使に批判的でした。白石によると一回の通信使の受け入れに約百万両かかり、当時、幕府の年収約八十万両をはるかに超えていました。
 そこで白石は経費節減のため、正徳元年 (一七一一)の通信使の待遇を簡略化したため、木下順庵の同門で対馬藩の儒者だった雨森芳洲と対立します。また、対朝鮮文書の将軍家の称号を「日本国大君」から「日本国王」とし、朝鮮国王と対等にしました。
 もっとも、こうした措置は前例を重んじる朝鮮通信使の猛烈な反発を招いたので、次の享保四年(一七一九)の徳川吉宗の将軍就任を祝う通信使では、元に復されました。

 雨森芳洲の活躍
 雨森芳洲は寛文八年(一六六八)、近江国伊香郡雨森村(現・滋賀県長浜市高月町雨森)の町医者の家に生まれ、京都で医学を学び、江戸へ出て朱子学者・木下順庵の門下に入ります。同門の新井白石、室鳩巣らと才を競い、漢文は最も優れていると評価されました。漢詩が一番だったのが白石で、甲府藩主・徳川綱豊の家庭教師になり、その後、綱豊が第六代将軍家宣になったので、権勢を振るうようになります。芳洲は元禄二年(一六八九)に語学の達人として木下順庵の推薦で対馬藩に仕官し、その後、長崎で中国語を学んでいます。
 対馬は山がちの地形のため米作には不利で、対馬藩は十万石ですが、米は五千石しか取れませんでした。九万五千石は朝鮮との交易で稼いでいたので、ある意味で近代的な藩です。対馬を統治していた宗氏は交易の必要から朝鮮王国の官位を受け、形式的に従属していたので、独島(竹島)と同じように、対馬も韓国の領土だという韓国人もいます。
 対馬が日本領であることは歴史的に明らかですが、竹島の史料はそれほど明確ではありません。もし、国際司法裁判所に掛かると、以前でしたら四分六で日本が有利でしたが、今は研究者の間では五分五分という状況です。江戸時代にも領土問題はありましたが、グレーゾーンにしていました。
 隠岐は、旧石器時代から石器の材料として利用されていた黒曜石の産地です。隠岐の黒曜石はロシア沿海州の縄文時代に当たる約八千年前の遺跡から発掘されています。そこに行ったところ、祖父が竹島の漁場を開発したという人がいました。
 その後、芳洲は朝鮮方佐役(朝鮮担当部補佐役)を拝命し、元禄十六年(一七〇三)から二年間、釜山の倭館に滞在して朝鮮語を学んでいます。この間、朝鮮側の日本語辞典『倭語類解』の編集に協力し、自らも朝鮮語入門書『交隣須知』を作成しました。
 芳洲が外交の要諦を記した『交隣提醒』には次のようなくだりがあります。
 朝鮮通信使に日本人が「朝鮮国王は庭に何を植えていますか」と聞いたところ、答えは「麦」でした。それを聞いた日本人は「さても下国にて候」と言いました。日本の天皇が皇居で田植えをするのは、米作りが大切だからです。朝鮮は畑作なので麦を植えたのであって、農業を大事にすることでは同じです。
 江戸時代の日本には園芸ブームがありました。一番はやったのは朝顔で、朝顔は一代交配の雑種ができるため、盛んに変わった朝顔を作り、木版画で図鑑が出るほど人気になりました。椿も色々な品種が作られましたから、質問した日本人は、何か花を植えているのかと思ったのかもしれません。
 しかし、儒教の教養が深ければ、農業を大事にする王は立派だと思えたはずです。韓国の農民の祭りでは、「農者国之本」という旗が立てられます。国王が麦を植えていると答えた通信使は、素晴らしいことをしていると言ったつもりでした。日本人が馬鹿にしたのは無知からくる誤解で、日本人の方が間違いです。朝鮮人との付き合いが長い芳洲は、そんな例を挙げて、文化や歴史についての相互理解の大切さを説いています。
 有名な言葉は「互いに欺かず争わず真実を以て交わり候を誠信とは申し候」で、「誠信の交わり」が外交の基本だとしました。
 次のようにも書いています。
 「これも時勢をわきまへ申さず、いつとても押しつけおき候へば相済み候とのみ存じ候故のことにて(中略)とにかく義理を正し申さず押しつけ置き候て相済み候と存じ候は、後来の害を招き申すべき事に候。」
 外交交渉で強硬なことを言えば、時には言い分が通ることもありますが、しこりが残るので、将来に害を招くことになるということです。
 釜山の倭館は敷地が十万坪あり、対馬人が四百〜五百人住んで、対馬藩の大使館と貿易商社を兼ねていました。男性がたくさんいたので、朝鮮の女性を引き入れる事件が時々起こります。k朝鮮当局に見つかると女性は死刑です。女性を囲うのは大問題ですが、二国間の外交においては小さな問題です。交渉がまとまらず剣を抜くと戦争になるので、こちらの主張を力で通すのはよくないと戒めています。
 私は今の日本の韓国との外交がうまくいかない理由は、従軍慰安婦問題をはじめ、日本側が自国の論理を無理に通そうとするところにあると思います。韓国に比べて日本は国際的にも大国で、韓国人も本音ではそれを認めているのですから、もっと相手国の気持ちを尊重して交渉を進めるべきだと思います。日韓基本条約も、韓国は決して納得して受け入れたわけではありません。
 芳洲の随筆『たはれくさ』には次のようなくだりがあります。
 「国のたふときと、いやしきとは、君子小人の多きとすくなきと、風俗のよしあしとにこそよるべき。中国にむまれたりとて、ほこるべきにもあらず。また夷狄にむまれたりとて、はづべきにしもあらず。」
 今、韓国に対する差別発言はネット上に氾濫しています。似たようなことは江戸時代にもあり、本居宣長も今のヘイトスピーチのようなことを言っています。そんな時代に芳洲は、国の貴賤は人格と教養のある君子の多さと風俗によって決まるとしたのです。江戸儒学の祖である藤原惺窩も同じことを言っています。
 当時の中国は清朝で、最も栄えた乾隆帝の時代です。ですから、荻生徂徠は西の方に引っ越すと、少しでも中国に近づいたとして喜んでいました。芳洲は中国語も話せましたが、徂徠のように中国を礼賛はしていません。当時の中国は日本も朝鮮も夷狄としていました。
 次の漢詩は、嫡孫の鑅(れん)が元服した時に贈ったものです。
 「吉日良辰、気象新たなり/満堂喜ぶ、汝の既に成人なるを/妙齢懈らず、青雲の志/学を嗜(たしな)み、すべからく/観国の賓となるべし」
 「観国の賓」とは、外国から招待されるような人という意味です。人格が立派で教養のある人で、外国旅行する今日の日本人もそうであってほしいものです。
(2018年6月5日738号)

 かみがいと・けんいち  1948年、長野県松本市生まれ。東京大学教養学科ドイツ分科卒業。同大学院比較文化博士課程修了。ソウル大学留学。東洋大学助教授、国際日本文化研究センター助教授、教授、帝塚山学院大学文学部教授、副学長、大手前大学教授をへて現在、大妻女子大学比較文学部教授。著書『雨森芳洲』(中公新書)でサントリー学芸賞を受賞。『半井桃水の朝鮮観』で東京大学より博士号取得。近著に『鎖国前夜ラプソディ 惺窩と家康の「日本の大航海時代」』(講談社選書メチエ)がある。