イスラム教徒の信仰の強さに驚嘆

カイロで考えたイスラム(1)
在カイロ・ジャーナリスト 鈴木真吉

祈るイスラム教徒の人たち
祈るイスラム教徒の人たち

 イスラム教スンニ派の本拠地の一国とも言えるエジプト(国民の九割がイスラム教徒で、ほとんどがスンニ派。あとの一割はエジプトのキリスト教であるコプト教徒)に滞在して既に約十七年が経過した。筆者にとってエジプト滞在は、初のアラブ・イスラム圏への長期滞在で、それまでに経験したことのなかった多くの事象に出くわして戸惑うことが多かったことから、その内容を記したいと考えていた。今回、それが実現でき、喜びもひとしおだ。
 最も印象的なことの一つは、国民の大多数が、イスラム教に対する強烈な信仰を持っていたことだった。
 ある日、同国の首都カイロの中心地タハリール広場を通りかかった時に、広場のど真ん中にある空き地で、一人の男性がイスラム式の礼拝を捧げていたのを見た。誰が見ていようといまいとお構いなしに、神に敬拝を捧げている姿に、信仰への強い姿勢を感じた。
 更に驚かされたのは、モスク(イスラム礼拝所)でもない一般の路上で、十数人が集まり、イスラム式の敬拝を捧げている場面に出会ったことだ。こちらではよく見かけることで、子供や若者たちが混じっていることも珍しくない。どの宗教団体でも年配の人は多いが、若年層は少ないのが普通だが、イスラム教ではそうでない。
 イスラム式の敬拝は、手を耳の後ろに持っていったり、額を地面に付けるように頭を下げたり、お尻を突き出すように持ち上げたりと、見ていて恰好のいい仕草ではない。それを恥ずかしがらずに、黙々とこなす少年や青年の姿が実に印象的だった。
 もう一つの大きな戸惑いは、毎朝三時から四時、時期によっては五時ごろにかけて、大スピーカーから大音響の音声が流れ、礼拝の時を告げる「アザーン」が街中に響き渡ることだ。昼から夜にかけて更に四回のアザーンが流れるのだが、それらは周りが騒々しかったりするので、あまり気にならないのだが、深い眠りに落ちている最中にたたき起こされる早朝のアザーンにだけは正直、閉口した。
 勿論、周りの住民は当然のこととして過ごしている。私も我慢しているうちに抵抗感が薄れ、あまり気にならなくなったのだが、慣れというのは恐ろしいとも感じている。
 カイロ市の中心部にあるラムセス駅に行った時のこと、昼過ぎに、駅に勤めている人々が構内の広い空間に集まり、一斉に敬拝を捧げている場面に出くわした。列車の運行に支障はないのだろうかと、一瞬不安にもさせられた。
 小さな商店でも、お客がいるにもかかわらず、店主が小さな絨毯を地面に敷いて、敬拝を捧げ出していた。近所の時計屋に行くたびに主人が不在なので、どうしたのかと従業員に尋ねると、近くのモスクに祈りに行っているという。彼らにとって、商売は二の次で、何よりもアッラーに対する敬拝を最優先して生活していることがわかる。日本では到底考えられない光景だが、彼らはそれを当然のこととして生活しているのである。
 どうしてこれだけ信仰が強いのか? その謎は次第に解けていくのだが、これが個人の信仰生活の次元に留まっていれば、それほど大きな問題にならない。だが近年、社会的な問題を引き起こす過激なイスラム教徒らの行動の背景に強い信仰心があるのを否定し切れないことから、問題視されるようになってきた。
 国際テロ組織アルカイダによる、米国同時多発テロ事件を皮切りに、近年はイスラム過激派組織「イスラム国」(IS)による、想像を絶する蛮行が多発し、世界を震撼させている。
 彼らは、イスラム教徒が唱和する「アッラー・アクバル(神は偉大なリ)」を叫んで、犯行に及んでいる。ISの支配地域では、通常の学問や芸術は廃止され、イスラム教の聖典コーランだけを学習させて、聖戦士を育成、自爆テロや各種戦闘に駆り出している。
 イスラム教徒としての自覚を強く持ち、戦っていることを見れば、彼らは紛れもないイスラム教徒であろう。世俗化したイスラム教徒に比べれば、より純粋で、コーランを文字通りに信じようとする真のイスラム教徒に近いとも考えられる。
 では、イスラム教の聖典であるコーランがテロや暴力を生んでいるのか? しかりと答える人も、そうではないと答える人もいる。本連載では、暮らしを通して見えるイスラム教を概観しながら、近年中に世界一の信徒数になり、いろいろな方面に多大な影響を与えるであろうイスラム教に対し、我々日本人がどのように向き合えばいいのか考えたい。
(2018年2月5日付730号)