「敬天愛人」の沖永良部島
2018年2月5日付 730号
一月十日、鹿児島県の沖永良部島(和泊町、知名町)を訪ねると、昨年十一月に天皇、皇后両陛下をお迎えした島の人たちの喜びの余韻が漂っていた。両陛下は十六日、二泊三日の旅程で同島を初訪問され、口永良部島と与論島を訪ねられた後、沖永良部島へ戻られ、十八日に同島のテッポウユリのビニールハウスや小学校などを視察された。
島の名産であるテッポウユリは、二〇一二年の最初の訪問計画が天皇陛下の心臓バイパス手術などの理由で中止になった折、島民が「お見舞い」に送った花。ユリの栽培ほ場を訪れた両陛下は、栽培農家に「以前に送って頂いて、どうもありがとう」と声を掛けられたという。国民一人ひとりとの心のこもった交流が嬉しい。その思いは、静かに確実に人々の間に広がっていく。
「敬天愛人」発祥の地
島の稼ぎ頭であるテッポウユリには面白い歴史がある。ユリは元来、島に自生していたが、その商品価値を島民に教えたのは、一八九九年に島の沖で船が難破し、助けられたイギリス人貿易商人アイザック・バンティング。キリスト教で白いユリは純潔を表し、聖母マリアの象徴として描かれてきた。そこから彼は西洋諸国への輸出を勧め、島民にユリの球根栽培を奨励したのである。
一九〇二年に「エラブリリー」として欧米への輸出が始まり、当時の貴重な外貨獲得手段となった。一九一一年当時、植物輸出総額の七割がテッポウユリで、鹿児島県産はその中でも重要な位置を占めていた。戦後は栽培技術の発展や流通ルートの整備などで切り花が主流になる。和泊町には花き専用の集荷場があり、集められた花はコンテナに積まれ、大型フェリーで鹿児島港へ、そしてトラックで大阪、東京などに運ばれていた。
島の民謡「えらぶ百合の花」には、ユリにかける島民の思いが込められている。その一部は「永良部百合の花 アメリカに咲かち ヤリクヌ うりが黄金花島によ 咲かさ」(永良部のユリの花をアメリカで咲かそう、黄金の花を島で咲かそう)。
テッポウユリのハウスなど案内してくれた和泊町経済課課長の武吉治さんに、花き栽培発展の要因を聞くと、「西郷さんのおかげです」と意外な返事。聞くと、この島に流刑になり、一年七カ月滞在した間、島民たちを教育したからで、「だから、驚くほど真面目なんです」と。ちなみに和泊町には南洲神社と西郷南洲記念館がある。
薩摩藩の流刑地として一番遠い沖永良部島には、西郷はじめ政治犯が多く流されてきた。その一人、川口雪蓬(せっぽう)は陽明学の研究者で漢詩や書の達人。西郷に学問を教えると同時に仕えるようになり、西郷に少し遅れて鹿児島に帰ってからは西郷家に住みつき、西郷亡き後はその家族を死ぬまで守り続けている。
南洲記念館には西郷が入れられた狭い牢が再現され、座禅を組むやせた西郷の銅像があった。この時、西郷は死を覚悟していたという。その西郷を立ち直らせたのが、監視役の薩摩藩士、土持(つちもち)政照で、牢を座敷牢に改築し、後に義兄弟の契りを結ぶほどの間柄になる。
やがて西郷は島民や子供たちを教えるようになり、凶作時に備え互助組織の社倉を提案するなど島の発展に尽くした。そして、陽明学や漢訳の旧新約聖書、島の人たちとの学びと実践の中から到達したのが「敬天愛人」の思想だという。そこで島の人たちはこの島を誇りをもって「敬天愛人の島」と呼び、小学生は紙芝居で西郷の生涯を学んでいる。
生き方としての西郷
政治思想家としての西郷隆盛は、評価が大きく分かれている。内村鑑三により「明治維新の精神」とまで称えられながら、不平士族に担がれた西南戦争で敗軍の将となり、時代遅れの封建主義者と酷評された。『翔ぶが如く』を書きながら司馬遼太郎が西郷に辛口だったのは、後の戦争につながる征韓論への嫌悪からだという。
女性の作家と脚本家によるNHKの大河ドラマ「西郷どん」で描かれるのは、むしろ人間としての西郷である。何をしたかより、どう生きたかに注目し、それぞれの人生を重ねながら見たいと思う。