ルター宗教改革500年によせて
丸山久美子 聖学院大学名誉教授
「万人祭司」から「神の痛みの神学」へ
マルティン・ルターの宗教改革の原点はある種、霊的な体験だった。師のヨハン・フォン・シュタウピッツから「キリストの十字架を見よ」と言われて見ていると、ルターの心に表現できない何事かが起きた。同じように北森嘉蔵(かぞう)は佐藤繁彦の「キリストの十字架を見よ」という言葉を信じ、十字架を見ているうちに目から涙があふれる霊的な体験をし、これが「神の痛みの神学」の原点となった。北森の薫陶を受けた心理学者の丸山教授が、第六感に焦点を当てながらルターの宗教改革と北森嘉蔵の「神の痛みの神学」「教会合同論」について語った。(昨年十二月十四日、NPO法人にっぽん文明研究所後援による東京での講演より)
北森嘉蔵との出会い
私の専門の基本は心理学ですが、それに飽き足らなくなり、大学院の先生から私の最も尊敬する先生がいる統計数理研究所に出されました。そこで特訓を受け、外務省にも行きました。
私が北森嘉蔵先生から特別に訓練を受けたのは十七歳、青山学院高等部二年生の時でした。当時、ドストエフスキーに熱中して、自分という人間の存在意義を考え始めて訳が分からなくなり、もはや私はこの世の中には必要ない人間だと思い、世の中を呪って死ぬところを北森先生が救ってくれたのです。
北森先生の講演を聞いてパッと目が開け、すぐに洗礼を受けました。青山学院教会に通っていましたが、その後、青山学院の神学部がなくなり、青山学院教会もなくなったので、しばらくブランクがありました。北森先生に再会したのは十五年後のことで、その間、私はどこの教会にも属さず、霊的に飢餓状態でした。北森先生が千歳船橋教会にいることを知ってそこに所属し、以後、先生がお亡くなりになるまで約十五年間、先生から徹底的に神学を学びました。
先生は、神学はもとより文学にも心理学にも精通していて、先生から多くの恩恵を受けました。生誕百年の二〇一六年、日本に広く先生を知らしめようと思い『北森嘉蔵伝 その思想と生涯』を書きました。『神の痛みの神学』は英語、イタリア語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、韓国語などに訳されていて、北森先生は世界ではよく知られていますが、国内ではそれほどでもないからです。
ルターの生い立ち
マルティン・ルターの宗教改革五百年を記念して、まずはルターがどういう人物だったのかお話しします。彼が生まれたのは一四八三年で、父親はドイツのチューリンゲン地方のメーラ村という小さな村の名のある農家でした。長男ですが家を出て、近くの工業地帯のアイスレーメンのマンスフェルトで暮らすようになり、鉱山で大変な成功を収めました。ルターはそこで新興労働階級の子供として育ちました。
彼はかなり頭のいい子供でしたが、母親には厳しく育てられました。十四歳の時に当時の習慣で「生活兄弟団」という青年のグループに入り、集団生活をしながら厳しい訓練を受けました。それからチューリンゲンのアイゼナハで敬虔なコッタ夫人の家に寄寓し、徹底的な宗教教育を受けました。そしてコッタ夫人の力添えもあって、近くのエルフルト大学の教養学科に入り、上級生になって専門学科に入ります。父親に法学を学ぶよう言われ、ルターは法学を学びました。
そして両親の家に一度帰り、自分の勉強について報告すると、父親は喜び息子を誇りに思いました。その帰り道、シュトッテンハイム村で雷雨に打たれたルターは、有名な話ですが、「助けたまえ、聖アンナよ。私は修道士になります」と大声で叫んだのです。私もドイツ留学時代の六月、雷を体験したことがあります。そのものすごさは日本では体験できないもので、私は家の中にいても怖くて、神様に「まだ死にたくないので長生きさせてください」と祈ったほどです。それでルターの事を思い出したのですが、ましてや外にいたらどれほど怖いだろうかと想像できます。
ルターの言葉は神様にお仕えしますという意味で、聖アンナは聖母マリアの母で、炭鉱夫たちの守護聖人です。法学とは関係なく、修道士になると言ったのです。ある人は、雷は神の声だったと言います。そしてルターは寄宿舎にも帰らずに修道院に入りました。中世カトリック教会の代表的な修道院、アウグスティン教団に入ったのです。修道院では誓約をし、神の裁きについて教えられました。
心理学では五感しか研究しません。どんなに聖書を研究し、説教を聞いても、第六感がなければキリスト者にはなれません。それがドイツ神秘主義です。ルターも北森嘉蔵も第六感が非常に優れていました。特にキリスト教では、神を必要とする感覚や理解には、超自然的なものがなければならないと私は考えています。
修道院に入ったルターは模範生で修道院の教え通り何でもしましたが、心は全然晴れませんでした。早朝に起きて祈り、夜も祈り、普通でない生活をして、寝ている暇も惜しんで神に仕えているのに、何の満足も得られず、心はすさむばかりでした。神はいるのだろうか、もしかしたら神は悪魔かもしれないと思うほど、心が痛めつけられました。苦しみ悩んだ時のルターの肖像画がありますが、徹底的に打ちのめされた様子です。
ルターは先生のヨハン・フォン・シュタウピッツに相談しました。神秘主義者でトマス・アクィナスの信奉者だった彼はルターに「キリストの十字架を見よ」と言いました。ルターが十字架を見続けていると、だんだん心の中に変化が生じてきたのです。第六感が湧く瞬間は何かが降りてくるという感じで、十字架からキリストが降りてきて、自分の手を握るということが起こるものです。
「十字架の上でキリストが流したその血を見なさい」とシュタウピッツが言ったので、その通りにしたら、ルターの心は気絶するような感じになり、はっと目が覚めました。そこで、キリストは神なのだと悟ったのです。また、聖書を読んでいると、ロマ書に「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」の三つが書かれていて、パウロの神学の神髄であるロマ書の信仰義認説が宗教改革の本質になりました。
ルターの宗教改革
ルターが唱えた万人祭司は、洗礼を受けた瞬間から、第六感でキリスト者になると感じた瞬間から、誰もが祭司だということです。当時の聖書はラテン語で書かれていたので、一般人は誰も読めませんでした。ルターは万人祭司になるには自分で聖書を読めないといけないと考え、一般のドイツ人にも読めるように聖書をドイツ語に翻訳しました。
特にロマ書を読みなさいと言ったのは、そうすれば信仰義認説に目覚めるだろうと思ったからですが、そううまくはいきませんでした。中世ヨーロッパは日本的に言うとご利益信仰、免罪符がまかり通っていて、司祭は天国に行きたいならお金をたくさん捧げなさい、そうすれば天国で高い地位に就きますと教えていました。ところが、ドイツ語で聖書を読めば、神は何もお金なんか求めていないことが分かってしまいます。
ルターは一五一七年十月三十一日、贖宥の効力を明らかにするための「九十五カ条の論題」をウィッテンベルク城教会に提出したのです。これを読むと、お布施をたくさん出す者が優遇されるというのはあり得ないことが分かるので、騒然となりました。たまたまこの日はケルト民族の慰霊祭の、今でいうハロウィンの日でした。
当然、上層部が黙っているはずはなく、ルターは神聖ローマ帝国皇帝カール五世から出頭命令を受け、ヴォルムスの国会に喚問されました。教会会議に召喚されたら、たいていはフスのように異端とされ、火あぶりの刑に処せられます。ルターは死を覚悟して出頭し、「ここに私は立つ。私はかくせざるを得ない。神よ我を助けたまえ」と堂々と演説しました。そうすると彼の支持者が現れ、ザクセン選帝侯の計らいで、ヴァルトブルグ城にかくまわれ、その間に彼はラテン語の聖書を三カ月でドイツ語に訳したのです。彼はそれだけ非凡な人物でした。それによって多くの人々が聖書を読むことができるようになり、いろいろなことが明らかになりました。
その後もルターには苦難が待ち構えていました。城にこもっている間に革命が起きましたが、三カ月後に出てくると、すべて解決していました。人文学者との討論では、宗教改革の精神は知的、合理的人生観とは異なっていると主張しました。人文主義は人間主義だが、キリスト教は三位一体の神が重要なので人文主義とは相容れないと、ルターは議論しました。ルターから始まったキリスト教がプロテスタントで、それまでのカトリックとはいまだに分かれていますが、だんだん融合しそうなのも北森先生のおかげです。
北森嘉蔵の幼少期
北森嘉蔵は世界でもっともよく知られた日本人の一人です。一九一六年、熊本に北森家の一人息子として生まれました。近くにある花岡山が彼の遊び場でしたが、実はキリスト教三大発祥地の一つでした。東京には植村正久の横浜バンド、札幌には無教会主義の内村鑑三の札幌バンドがあり、花岡山には熊本バンドがありました。バンドとはグループのことで、熊本バンドは組合派で、後に同志社総長になる海老名弾正などがいました。
幼い頃、北森は浄土真宗の熱心な信者だった祖母に連れられてお寺に行き、お坊さんの話を聞いています。祖母が亡くなり、中学生になった時に、母親が水道町にあるキリスト教の教会に通うようになり、彼もついて行っていました。母親は洗礼を受けましたが、彼はどうしても受ける気になりませんでした。啓示が来ていなかったのです。私が生まれるのも父母がこうであるのも神様と仏様が命じたことで、死ぬのもそうだという摂理信仰は、利発な少年にキリスト教はピンとこず、洗礼なんて受けられないと思ったのです。
いろいろ悩んでいたころ、図書館で手にした分厚い本が、佐藤繁彦の『ローマ書講解に現れしルッターの根本思想』でした。佐藤は福島の生まれで、一高・東大に学び、海老名弾正から洗礼を受けたのち、熊本の教会に赴任していたことがあります。
もっとも、とても少年が読むような本ではありませんでした。生まれるのも死ぬのも全部神がそうしておられるからだという摂理信仰とは違い、佐藤は、それは神の思いではなく自分自身の問題だと言っていたのです。神の力ではなく自力、摂理ではなく、決まっているわけではないので、生まれた以上は、努力して自分を確立し、立派になりなさいという考えです。神が決めることではなく、全部、自分の努力次第だと気が付いたのです。その本で佐藤は、シュタウピッツと同じように「キリストの十字架を見なさい」と言っていたのです。
それを読んで突如として目が開いた北森が十字架をじっと見ていたら、何とも言えない現象が起こります。誰かが後ろから押しているような感じで、突如として目から涙がボロボロ出てきたのです。十字架のキリストはかわいそうなキリストですが、それにしても尋常ならざる涙です。その瞬間、北森が「私は洗礼を受けます」と言ったのは、第六感が働いたのです。それは宗教心理学においても必要なもので、その時聖霊が降りたのです。これが召命、天からのコーリングです。
「神の痛みの神学」
その後、北森は佐藤繁彦に無我夢中になり、佐藤が教えている東京の日本ルーテル神学専門学校に進むことにしました。本来は東大で言語学を勉強するつもりで、周りもそう思っていたのに、五高から専門学校へ行き、宗教を勉強するというのは前代未聞の事でした。北森は洗礼を受けた後、上京し、神学専門学校の入学式に出て、祝賀会をしている最中、佐藤が四十六歳で亡くなったという訃報が入ったのです。師事しようと思った先生が死んでしまったので、彼は一人で学ぶしかありませんでした。しかし、それがよかったのかもしれません。一人で勉強したことが、「神の痛みの神学」を生み出す一つのきっかけになったかもしれないと思うからです。
北森は佐藤繁彦のルターの根本思想を徹底的に読みました。そこにあったのは「隠された神」という概念です。キリストを敢えて十字架につけた父なる神の痛みのことです。真の神の愛は「隠された神」の中にあり、それは神が人間に対し神の愛を啓示する際に、怒りの仮面の下に隠すという意味です。これで北森の「神の痛みの神学」が固まります。
神の痛みの神学の聖書箇所はエレミヤ書31章20節の「主いひたまふエフライムは我愛するところの子悦ぶところの子ならずや我彼にむかひてかたるごとに彼を念はざるを得ず是をもて我膓(はらわた)かれの爲に痛む我必ず彼を恤むべし」(文語訳聖書)。北森は「膓かれの爲に痛む」に神の痛みがあるとし、神の痛みの神学はユルゲン・モルトマンにも受け入れられました。また北森は、ルター神学の、十字架において「神と神とが戦った」を引用し、「罪ゆえに人を滅ぼさんとする父なる神と、十字架で人を救わんとする子なるキリストが戦った」と述べています。
卒論のテーマが「キリストにおける神の認識」(一九三九)でした。卒業後、京都大学文学部哲学科で神学を勉強し、いろいろな先生方から学びました。西田幾多郎はすでに退官していて、田邊元が彼の指導教官でした。哲学者や仏教学者などと議論しました。西田幾多郎も徐々にキリスト教的になったように、京大には割と寛容な雰囲気がありました。相手を受け入れる思想の中で彼は育ち、常にものを書いていました。ある先生から「書いたことを本にしなさい」と言われ、学生の分際で本を書くというのはと何度も断りましたが、戦時中にもかかわらず『神の痛みの神学』を出しました。終戦後、皆の目に触れるようになると、心破れて戦場から帰り、生きるすべもない人々にとってものすごい慰めとなり、神学書ながらベストセラーとなりました。
教会合同論
『神の痛みの神学』には専門用語がたくさん出てきますが文学的な本です。しかし、神学者たちに受け入れられなかったのは、バルト神学に対するアンチテーゼだったからです。北森は皆から忌み嫌われるように迫害を受けました。それには一種の妬みもあったように思います。
私は心理学者で一信徒だから北森の評伝を書いても問題は起こらないと思ったのですが、それでもいろいろな妨害があり、心理学者に神学のことは書けないなどと言われました。
先生の最後の著書は『教会合同論』でした。北森はプロテスタントとカトリックを合同したかったのです。同じキリストを信じ、三位一体を信じる者たちです。やり方が違うだけなので、妥協しながら合同していけばいいのですが、なかなかできません。プロテスタントは自分を主張するのが特徴なので、いろいろな派閥に分かれています。教会分裂を収めるために、先生は沖縄まで行き、聖餐論を話したこともあります。聖餐式はカトリックとプロテスタントで全然違い、同じにできません。しかも、ルター、カルヴィン、メランヒトンにしても聖餐式は三者三様です。いつかは、これを何とかする偉大な人が出てくるのではないかと思います。
北森は八十二歳で亡くなりましたが、肺がもともと悪く、最後はパーキンソン病のようで足も不自由でした。しかし、教会は牧師は定年がないからと八十歳まで牧師をさせました。学生運動でもひどい目に遭い、教会の中でも先生にアンチテーゼを持つ人もいました。
北森先生は「隠された神」という題で説教されたことがあります。先生はキルケゴールが好きで、その文章をもじっていました。
「人は神が愛であるということをソプラノで歌うことができなくなっても、バスで歌うことができる。ソプラノで歌うのは神が愛であることを『実感』できるときである。バスで歌う時こそ、神が愛であることを『信仰』している時である」
神の愛を実感して喜んでいる時はソプラノで歌うかもしれない。しかし、バスで歌うのは、苦しみでうんざりしているとき、それでも私はあなたを信仰するということです。ヨブ記のように、私はすべてのものを奪われた、それでもなおあなたを信じますということです。たとえどんなことがあっても、ソプラノだけではなく、アルトでもバスでも歌うことができる。北森神学をこれから勉強して、聖書もよく読みロマ書もよく読んでください。そこに信仰義認論があります。
父母、祖父母は宣教師に
人間というのは結局、霊的な存在だと思います。感受性が強いか弱いか、霊的な素質があるかないかは人によります。感受性が強いと死んでしまうことがありますが、死なないためには宗教が必要で、幸福を求める相手がいないといけません。その意味でも、親は子供たちに信じることを教えるべきです。
小さい頃には神様がいたが、大きくなるといなくなるのでは困ります。悲しいときには神様がそばにいて慰めてくれるからと言ってあげれば、子供たちの心も少しは癒やされるでしょう。ですから私は、お父さん、お母さん、おじいさん、おばあさんは宣教師にならないといけませんと言っています。
子供にはそういう感受性が育つ土壌を作ってあげるべきです。勉強を押し付け、いい点を取りなさいと言うのではいけません。あなたの悩みを解決してくれる神様、仏様がいますよ、と優しく説諭できる親になってほしいですね。
(2020年2月5日付730号)
まるやま・くみこ 東京都出身。青山学院大学大学院心理学修士課程、統計数理研究所統計技員養成所専攻科修了。東京大学大学院教育心理学研究科特別研究生。国際交流基金特別長期派遣留学生として、米国イリノイ大学に留学。青山学院大学文学部助手・講師、盛岡大学助教授、教授、聖学院大学教授、ドイツ・ケルン大学客員教授(1995-96)、北陸学院大学教授などを歴任。現在、聖学院大学名誉教授。林知己夫賞受賞(行動統計学会、2009年)。著書に『心理統計学—トポロジーの世界を科学する』(アートアンドブレーン)、『林知己夫の生涯』(新曜社)、『北森嘉蔵伝』(教友社)、ほか多数。