「生命への畏敬」をあたためたヨーロッパでの10年

シュヴァイツアーの気づきと実践(16)
帝塚山学院大学名誉教授 川上 与志夫

 第一次世界大戦のため、アフリカのランバレネでの医療奉仕活動は思うようにいかなくなってしまった。軟禁状態での医療をつづけることほぼ3年。アフリカに渡って4年後の1917年の秋、捕虜としてシュヴァイツァーはフランスの収容所に送られた。体調を崩したが、翌18年7月、捕虜交換でふるさとのエルザスに戻った。ふるさとでは悲しいことが待ち受けていた。母アデーレは、戦争中に軍馬にけられて死亡していたのである。
 シュトラスブルグ市民病院で手術を受けたシュヴァイツァーは、同病院の助手となり、同時に聖ニコライ教会の副牧師に復帰した。ヨーロッパでのおだやかな生活に戻ったのだ。この年の11月、4年つづいた世界大戦は終わった。翌19年6月、ドイツ領エルザスはフランス領アルザスになり、ドイツ人シュヴァイツァーはフランス人になった。戦争ほど人の一生を翻弄するものはないだろう。要は、その宿命をどのように前向きにするかである。
 同年10月、シュヴァイツァーは招かれてスペインのバルセロナで、パイプオルガンの演奏会を開いた。「自分の指と音楽性はまだ健在だ」との自信がよみがえってきた。12月にはうれしいことに、スウェーデンのウプサラ大学から講演の依頼を受けた。彼は演奏会を開くことも希望し、準備にとりかかった。講演の中心は彼独自の「生命への畏敬の倫理」であり、演奏は長年研究してきたバッハの曲である。
 1920年の4月、彼は夫人を伴ってスウェーデンに行き、3か月にわたって各地で講演会と演奏会を開いた。シュヴァイツァーの献身的奉仕に敬意を抱いていた大学関係者や教会につらなる人びとは、彼を熱狂的に受け入れ、講演と演奏に賛辞を送った。その結果、彼は急を要する借金を返すことができた。この講演と演奏の旅行は大成功で、彼の評判はヨーロッパ中にひろがった。スイスのチューリッヒ大学からは、名誉神学博士の栄誉を授かった。
 翌21年には「水と原生林のはざまで」を出版し、執筆・講演・演奏に没頭するため、病院と教会の仕事から手を引いた。その年の暮れから2年間に、スイス、スウェーデン、イギリス、デンマーク、チェコスロバキアなどからの招きで、多くの講演会と演奏会を開いた。その間にも精力的に執筆活動をつづけ、「文化の退廃と再建」「文化と倫理」を出版した。この2冊は、彼がアフリカ滞在と第一次世界大戦から学びとった集大成である。
 シュヴァイツァーは文明という言葉を嫌い、常に文化を用いた。文明とは、英語もドイツ語も都会化を意味している。コンクリートで固められた都会には本物の大地がない、涼やかな清流もない、清らかな空気もない。こういう場所では、生命はあるべき姿で生きることはできない。それが大きな一因となってヨーロッパ文明は崩壊してきた。第一次世界大戦はその腐敗の結実であるに他ならない。われわれは手作業で大地を耕す、文化を大事にしなければならない。進歩も大切だが、進歩には倫理が裏付けされているべきである。進歩と倫理が両輪となってこそ、本物の文化が支えられ、進化する。したがって、今こそ倫理の本質を究明し、それを実践していく必要がある。この考えがシュヴァイツァーの文化哲学の基盤となったのだ。
(2020年10月10日付 768号)