伝説の報恩大師
連載・岡山宗教散歩(21)
郷土史研究家 山田良三
備前四十八ケ寺の開基
「報恩大師」というと岡山県外ではあまり知られていませんが、県内の備前・備中には「報恩大師」開基とされる寺院が多くあり、人々の崇敬を受けています。備前では金山寺をはじめ備前四十八ケ寺の開基として知られ、備中にも多くの伝承が残っています。大師号は朝廷からの尊称で、伝教大師最澄がその最初、 報恩大師の時代に大師号は無かったものの、それでも人々は「報恩大師」と尊称してきたのは、人々が大師の遺徳を顕彰してのことでした。
中央文書の元亨釈書や本朝神仙伝には、孝謙天皇の病気平癒等の逸話はあるものの、誕生地や誕生年の記述はありません。元禄15年(1702)に書かれた『本朝高僧伝』に「報恩は備前の生まれ」と書かれているのが初出です。備前・備中の人々は、備前国波河での誕生を信じ顕彰してきました。
岡山市北区芳賀にある日蓮宗顕本寺の本堂の裏手に「報恩大師産湯の井戸」があり、その説明板にはこう書かれています。
「奈良時代の昔、時は天宝勝宝四年、孝謙天皇の加持祈祷を行い、さらに桓武天皇の病気平癒の功績により報恩大師の称号と備前四十八ケ寺建立の勅許を得た偉大な人物はこの地に呱々の産声をあげた。当地では古来魔訶上人の『うぶゆ』の井戸として遺徳を偲び顕彰してきた。因みに魔訶上人は十五歳で日応寺に入り、三十歳で奈良吉野で修行し、延暦十四年に奈良県高取町子島寺で亡くなったとも牛窓の永倉山で亡くなったとも伝えられる。(平成7年1月1日 大導山顕本寺)」
地元の人に聞くと、報恩大師は「魔訶上人」(偉大な人)と呼ばれ崇敬されてきたと言われます。
岡山空港に近い日応寺の日蓮宗日応寺の縁起には、「養老二年多宝坊の開基、当初三論宗に属し応永山法華経寺と称した。報恩大師の備前四十八ケ寺の根本道場となり、桓武天皇の病気平癒に効あり、勅命山日応寺と改称、貞間18年(876)天台宗に改宗…」とあります。
三論宗とは奈良の元興寺、法隆寺、西大寺の三つの系統からなる、南都六宗の一つであり、栄西禅師もここ日応寺で修行をされました。
文化史研究家・逵日出典氏は「報恩大師行状考」(京都精華学園研究紀要第19輯所収、昭和56年)で、報恩大師の年譜を纏めています。本朝神仙伝や高野山系の伝承を総合し、「報恩は、養老2年(718)頃、大和で誕生、天平4年(732)頃出家、約15年間、興福寺にて修行、天平19年(747)頃吉野に入山。深山にて苦行、観音呪を体得、天宝勝宝4年(752)孝謙天皇の病気平癒を祈祷、その後も吉野で修行を重ね、天平宝宇4年(760)、大和高市の山中に、十一面観音を本尊として子嶋寺を建立、延暦4年(785)桓武天皇の病気平癒を祈願して、十大禅師に列せられた。延暦14年(795)子嶋山寺で入寂」としています。ここには報恩大師は大和で誕生、興福寺で修行、30歳で吉野に入るとなっています。
金山寺に多くの伝承
報恩大師の伝承が最も多く残されているのは岡山市街の北、金山にある天台宗金山寺です。寺の正式名は銘金山観音寺遍照院で、古くは興福寺と同じ法相宗でした。
仁安3年(1168)の金山寺文書『備前国金山観音寺縁起写』には、「天平勝宝元年(749)報恩大師は勅命により霊場(金山寺)を建立。生まれは津高郡駅郷波河村の百姓の子、備中日差山に登り、その後、児嶋の藤戸に渡り一寺、次に瑜伽山に登り一寺、その後、大和高市郡矢田郷に一寺を建立したのが子嶋寺で、大師が児嶋から渡ったことから名づけられた」とあります。
報恩大師が15歳で入ったとされる備中日差山は、備中国分寺や造山古墳などがある、吉備路の南側、福山から続く山系の東端、日差寺のあるあたりです。
桃太郎伝説で有名な鯉喰神社に近い倉敷市矢部の高野山真言宗日差山寶泉寺の寺伝には、「この寺の本尊聖観世音菩薩像は、金山寺の千手菩薩、京都清水寺の聖観世音菩薩と並び同木異躰の三観音として信仰を集めている」とあります。また「(当寺は)天平勝宝元年の孝謙天皇の勅命で備中に建立、(報恩の)弟子の知久に付属された」とあり、同じ報恩の弟子延鎮開基の京都清水寺との類縁を伝えています。知久は後に桓武天皇の眼病の治癒の験をし、その功により「心浄大師の大師号を賜った」とも伝えられます。
倉敷市山地の日差寺には、報恩大師刻と伝承の毘沙門天の摩崖仏があります。日差山の山系の西側が福山で、その山麓には毘沙門天を奉じる浅原安養寺があります。もとは福山の山上にあった山上伽藍が、室町時代に麓の浅原に降り、浅原千房と呼ばれる多くの僧房が開かれたところです。安養寺は恵心僧都源信の開創とされ、裏山からは平安中期の経塚が多数出土しています。栄西禅師得度の寺でもあります。安養寺の縁起には、「浅原山寺として開創されるのは、延暦元年(782)桓武天皇の勅願により報恩大師に依る」とあります。
福山には徐福の伝承もあり、日差山から福山に続く山上は報恩大師の時代、吉備の聖なる山、修行の道場でした。現在は倉敷市二日市にある高野山真言宗の駕龍寺は、元は福山にあり報恩大師の開基との伝承です。倉敷市鳥羽の萬壽山報恩寺寶幢院は報恩大師の開基で「報恩」の名の寺名です。
吉備路の北方、龍王山の麓、岡山市北区高松稲荷にあるのが、日本三大稲荷の一つ、日蓮宗最上稲荷妙教寺です。最上稲荷も報恩大師の開基で、由緒には「天平勝宝4年(752)、報恩大師に孝謙天皇の病気平癒の勅命が下り、龍王山中腹の八畳岩で祈願を行いました。すると白狐に乗った最上位経王大菩薩が八丈岩に降臨。大師はその尊影を刻み祈願を続け、無事天皇は快癒されたといいます。その後延暦四年(785)、桓武天皇ご病気の際にも、大師の祈願により快癒。これを喜ばれた天皇の命により、現在の地に龍王山神宮寺が建立されました」と記されます。
報恩大師は日差山で修行後、藤戸に一寺、児島の瑜伽山に一寺を建て、大和に登り子嶋寺を建てたとあります。
藤戸寺や瑜伽山の縁起に報恩大師は見られず、開基は行基となっているものの、同じ児島の熊野神社と五流尊瀧院の縁起を見ると、役行者の主要な弟子5人によって熊野社が開かれ、朝廷から篤い信任を受け、新熊野山(いまくまの)として、天平12年(740)、聖武天皇から児島一円を社領として寄進されました。天平宝宇5年(761)には、紀州熊野三社になぞらえて新熊野三山と堂宇が整えられたとあり、瑜伽山には熊野の那智宮に相当する宮が建てられたとあります。報恩大師が藤戸や瑜伽山に一寺建てたとの伝承とほぼ同時代のことです。
(2020年10月10日付 768号)