宗教と政治をめぐる駆け引き

連載・キリスト教で読み解くヨーロッパ史(9)
橋本雄・宗教研究家

フランス革命と教会
 アメリカ・ニューヨークにある自由の女神(正式名称:世界を照らす自由)のオリジナルは、パリのセーヌ川に立っている。(ルクセンブルク公園にもあるが!)女神像はアメリカ独立100年を記念してフランスから贈られたものだ。
 そのセーヌ河畔に、マリー・アントワネットが処刑されるまでの間、収監されていた牢獄コンシェルジュリーが残っている。今はフランス司法宮となっていて、司法関係機関が入っている。
 1789年のフランス革命は、フランスのみならず世界に多大な影響を与えた。革命政権は絶対王政だけでなく、それを支えたカトリック教会をも攻撃し、教皇権を否定した。カトリック典礼なども否定され、多くの聖職者が殺害され、フランス王国の20%と言われた教会財産も国家に没収された。さらには、出生から死亡に至るまで、人々の生活の基礎であった教会の役割を徹底的に否定する「非キリスト教化」が実行された。
 革命政府の宗教迫害は驚くべきもので、ロシアの共産主義革命を想起させる。「自由、平等、友愛」というスローガンは色あせ、自由は混乱を招き、平等は貴族や富裕層の襲撃を、友愛は独裁政権と殺戮を招いた。

イギリス国教会の誕生
 ドーバー海峡の対岸では16世紀中頃、イギリス王が自分の離婚問題で苦しんでいた。カトリック教会に婚姻の無効認可請求を出したが、完全に拒否された。どうしても離婚したい王にとって、できることはカトリックの否定だけだった。この「王の離婚」は一般庶民の離婚とはけたが違い、すなわち国家の根幹を揺るがす大きな変動となった。まさに王はカトリックを捨てたのである。
 そして、1534年に国王至上法を制定し、イギリス国教会が出来上がった。これによって王権が教会財産を自由にできるようになり、修道院が所有していた財産は国家に没収された。(これが目的だったのか?)そしてイギリスの修道院は廃れることとなる。ここでも教会の資産が狙われた。フランスでもイギリスでも、教会は膨大な資産を持っていたのである。
 その後、カトリックへの揺り戻しや、清教徒の反発などがあり、イギリスを追われた清教徒は、決死の航海を経て新大陸アメリカに移ることとなった。そして、エリザベス1世の時に、女王を「信仰の擁護者」とすることにより、国教会体制は本格的に確立した。
 それ以来、イギリス国教会の長は英国の女王か王である。宗教と政治は未分化であるが、歴史的・伝統的背景から、イギリス王室は政治には「君臨すれども統治せず」というスタンスを取っている。イギリスの一連の革命は血塗られたフランス革命に比べれば、より穏健であったと言える。王が教皇権を否定して、宗教的権威の位置も確保した例である。

イエスの言葉
 教皇と皇帝、政治と教会、信教の自由はヨーロッパの実に長い歴史の中で練られてきた理念である。中世ヨーロッパでは国家と教会、王権と教皇権は一体のもので、信教の自由は認められていなかったが、やがて信仰と政治、国王権と教皇権の分離が進んだ。
 それに根拠を与えた聖書の一句が「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに」(マタイの福音書22章)である。これは、イエスを貶めようとする者が、当時ローマ支配下のユダヤの地で「ローマに税金を納めるべきかどうか」と質問した時のイエスの答えである。
 「税金を払え」といえば民衆は反発する、「税金を払わないでいい」とすれば反ローマ発言となる。それに対してイエスは、コインにはローマ皇帝が刻まれているからローマのもとに、神のこと(信仰問題)は神に聞けと言ったわけである。イエスの絶妙な答えであった。それが広く解釈されて、世俗のことは世俗に任せよとなった。宗教と政治の問題まで含んだ解釈がされたのである。
宗教と政治
 日本では「宗教と政治」というが、英語ではChurch and State、簡単に訳せば「教会と国家」となる。政教分離は教会と国家の分離で、国家が特定の教派に特別待遇を与えてはいけないという意味となる。中世のヨーロッパでは、多くの領土を持つ教皇や修道院は、財政的に保護され、国王や貴族などの政治的権力が簡単には手が出せなかった。国家の中の国家のような状況が出現していたのである。そして、国王と教会が権力や税金、叙任権を巡って綱引きをしてきた長い歴史がある。
 また信教の自由には「信じる自由」「信じたことを話し、伝える自由」「信徒が集まって集会や礼拝をする自由」、信じたことを「印刷して配布する自由」、それらの環境を保証するための「献金の自由」などが含まれている。
 もっと色々と挙げられるが、この信教の自由は大きな波及効果を生んだ。魂や発想の自由は芸術や科学の発達を促し、結果的に多くの文化が栄えたのである。創造性は、魂と発想の自由がなければ湧いてこない。西洋では、こうした自由な環境が、多くの犠牲の上に出来上がっていた。

アメリカとドバイ
 信仰の自由を希求して清教徒が渡ったアメリカは、信教の自由が国家の根幹である。自由であるが故に、多くの信仰やキリスト教宗派、宗教がアメリカで基盤を築こうとして入ってきた。大量のイスラムが流入してきたことも、避けられない事情である。ヨーロッパでもイスラムの拡張が猛烈に進んでいる。翻ってイスラム世界に信教の自由があるかというと、その幅は極めて狭く、無い国もある。
 しかし2018年11月、アラブ首長国連邦のドバイで「世界寛容サミット」が開催された。サミットは大盛会で、イスラム圏での寛容サミットは画期的なものとなった。
 ドバイで働いている外国人は200カ国に及ぶという。代表的モスクを訪ねると、警備員はネパール人であった。彼らがあらゆる信仰をアラブ首長国連邦に持ち込んでいる。イスラムの厳しい宗教的立場もあるが、宗教的、人種的、文化的寛容は止めることができない歴史の流れとなっている。
 ニューヨークの「自由の女神」は、多くの移民に対して「自由な国」アメリカに着いたことの安心感と希望を与えたという。そのアメリカは自由と放縦、平等と格差、博愛と家庭崩壊という矛盾の中で苦しんでいる。自由の女神はどう見つめているのだろう?
(2019年6月10日付 752号掲載)