重源/東大寺再建の勧進僧・重源

連載・岡山宗教散歩(7)
郷土史家 山田良三

 東大寺勧進職を務めた俊乗房重源は、岡山にゆかりの法然や栄西と深いかかわりをもつ僧でした。
 文治2年(1186)に法然が天台僧らと宗論を戦わせた「大原問答」に重源は弟子十数人を伴って参加しました。重源が「南無阿弥陀仏」の念仏を受け入れたことから「重源は法然の弟子」だと言われたこともあります。治承4年(1181)に起きた平氏軍の南都焼き討ちで焼失した東大寺の再建で、後白河法皇は法然に勧進職を要請しましたが、法然はこれを辞し、重源を推薦しました。
 重源が栄西と出会ったのは宋の五台山で、以後、親交を結ぶようになります。帰国後、栄西が鎌倉幕府に招かれ、幕府の後援で禅宗を広めた背景に重源の計らいがあったことは間違いないでしょう。
 岡山県内には重源の史跡がいくつもあり、最もよく知られているのは岡山市東区瀬戸町万富にある「東大寺瓦窯跡」です。東大寺勧進職を引き受けるにあたり、重源はまず周防国国司を拝命しました。これは東大寺再建に必要な木材を確保するためで、次に備前国国司にも任命されたのは、備前国からの租庸を再建資金に充てると同時に、資源や人材・技術を再建に用いるためでしょう。
 万富の東大寺瓦窯跡はJR万富駅にほど近い、岡山市から和気町に向かう県道沿いにあります。岡山県の三大河川の一つ吉井川に近いのは水運を使うためです。万富から少し下ったところが備前刀で有名な長船や福岡の市のあった備前福岡です。万富の対岸にそびえる熊山の麓には、備前焼の窯が多くあり、瓦焼きにふさわしい土と技術が当地にあったことがわかります。
 重源の事跡を記した『作善集』(南無阿弥陀仏作善集)によれば、重源は全国に7つの別所(東大寺分院)を設け、そこを拠点に勧進を進めました。その一つが備中別所で、藤井駿岡山大学名誉教授は『俊乗房重源遺跡の研究』で、当時栄えていた「新山寺」(現総社市黒尾)と推定しています。新山寺は近くの岩屋寺とともに山岳修行の道場として栄えていた寺です。
 新山寺は戦国時代、宇喜多氏と尼子氏の騒乱で焼失し、今は何も残っていませんが、地元総社市による鬼の城発掘調査の一環で調査が進められています。鬼ノ城(きのじょう)」の近くに「鬼の釜」と呼ばれている大きな鉄の釜が残っていますが、これは重源が設けていた湯場の釜と推定されています。
 『作善集』に記されている備前吉備津宮の常行堂について藤井氏は、現在の吉備津彦神社(現岡山市北区一宮)だと推定しています。吉備津彦神社は、吉備津彦命を祀る吉備茶臼山古墳のある吉備中山の備前側にある神社で、備前と備中に分国された際、備前側に吉備津彦命を祀った備前国一宮です。同社の境内に東大寺瓦と同様の瓦が出土した所があり、そこが重源の寄進した常行堂の跡であろうと推定しています。
 重源が設けた湯場の跡は備前にもあります。竜の口山の南麓にある浄土寺(現岡山市中区湯迫)は奈良時代の創建で、重源が活動の拠点とした寺です。重源はここを宿所とし、近くの国府に赴き執務したとされます。万富での瓦焼きのほか、船坂峠の改修など山陽道の整備や備前各地の荘園の開発も行っています。また浄土寺に「大湯屋」を設け、庶民に利用させたそうです。
 備前で重源が開発した荘園の代表が岡山市北区野田の野田荘で、筆者が住んでいるところです。ここにある今村宮の宮司家から、黒住教の教祖・黒住宗忠が出ています。
 重源の前半生は謎に包まれています。宋に3回渡ったと自称していますが、文献は残っていません。久野修義岡山大学教授は『重源と栄西』で、当時は日宋交流が盛んだったことから重源が入宋した可能性は高いと述べています。
 『源平盛衰記』には「支度第一俊乗房」と書かれているので、様々な手配に優れた人だったようです。人脈も広く、栄西とともに法然の庇護者だった九条兼実を訪れたことが兼実の日記『玉葉』にも記されています。都の公卿たちだけでなく伊勢神宮や鎌倉の源氏との関係も大切にし、東大寺の勧進では鎌倉幕府の協力を仰いでいました。東大寺の落慶法要には源頼朝が妻子を伴って参列しています。面白いのは法要の後、重源が行方不明になり、頼朝の命で探し回ったところ、高野山の別所にいたそうで、奇行も様々しています。
 東大寺の再建がほぼ成った建永元年(1206)6月、重源は86歳で没しました。快慶作の説もある東大寺の重源上人座像はこの頃の重源の風貌をよく表しています。重源を看取った栄西は同年10月、東大寺の勧進職を継ぎました。
(2019年6月10日付 752号掲載)