山田顕義/日大と國學院を創設した日本のナポレオン

連載・愛国者の肖像(17)
ジャーナリスト 石井康博

山田顕義

 山田顕義(あきよし)は天保15年(1844)10月10日、長州藩萩(現:山口県萩市)に山田七兵衛顕行の長男として生まれた。幼名は市之允(いちのじょう)で、父は禄高が102石の大組士という中級武士。顕義は藩校明倫館で学んだ後、伯父の兵学者、山田亦介の勧めにより安政4年(1857)、14歳の時に吉田松陰の松下村塾の門下生になり、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文などに出会う。吉田松陰から学んだ期間は1年余りだが、人一倍勉学に励んだ顕義に、松陰は「与山田生」と題した漢詩を書いた扇を与え、立志の目標を示した。
 吉田松陰は、ヨーロッパを制圧したフランス皇帝ナポレオンを尊敬し、ナポレオンの兵法での日本制圧を考えていて、顕義はその影響を受けたといわれる。松陰は安政の大獄で投獄、処刑されてしまうが、顕義は師の志を継ぎ、知性と決断力で頭角を現していく。
 文久2年(1862)に藩主の世子である毛利定広の警護役で上洛し、高杉晋作、久坂玄瑞らと共に攘夷決行を誓う御楯組血判状に名を連ねた。同3年8月18日の政変によって、三条実美ら尊皇攘夷派の7人の公卿と共に長州に戻り、慶応元年に大村益次郎の普門寺塾に入門。そこで西洋兵学を学び、最新兵器や用兵術を習得した。
 同2年の第2次長州征伐の際には、丙寅丸の砲隊長、御楯隊の司令として活躍し、勝利に貢献。同4年の鳥羽伏見の戦いでは在京長州藩諸隊の指揮官として、千余名の長州藩兵を率い、約1万の幕府軍を退けた。その後も奥羽越列藩同盟との戦いや五稜郭の戦いで天才的な戦法、用兵術を見せ、勝利に大きく貢献した。このころから背が低い顕義は「小ナポレオン」と呼ばれるようになる。
 明治2年7月に兵部省が設立されると、顕義は大村益次郎を補佐する兵部大丞に任ぜられた。大村が死去すると、顕義は国軍の基礎作りに着手し、陸海軍の兵式を整えていく。
 同4年7月に陸軍少将に任命され、同年11月に岩倉使節団に兵部省理事官として随行し、欧米諸国の軍事制度を調査した。パリを拠点にヨーロッパ諸国を視察した顕義に、ある変化が生じていた。軍事よりも土台となる人民の教育と法制度の整備がもっと重要であると思うようになったのだ。吉田松陰が称賛していたナポレオンの偉大さは軍事的成功ではなく、ナポレオン法典を基軸に法治国家を形成し、教育制度を確立したことにあると考えた。そして、そこから顕義の後半生は、軍事から法律と憲法の研究と人民の教育へと軸足を移していく。
 同7年に佐賀の乱を鎮圧すると、陸軍少将のまま司法大輔(次官)に、同8年には刑法編纂委員長に就任した。同10年には司法大輔のまま西南戦争に従軍し、熊本城の攻防、人吉への進撃、宮崎、鹿児島への進軍など戦功を立て、勝利に貢献した。翌11年には陸軍中将に任命され、同12年に工部卿(長官)、同14年内務卿、そして同16年に司法卿に就任し、同17年には伯爵を叙爵した。
 明治18年、第1次伊藤内閣の司法大臣に就任し、法律取調委員長として法律を整備。民法はフランス人のボアソナード、商法はドイツ人のロエスレルが原案を起草し、民事訴訟法、裁判所構成法などの草案も審議され、顕義は法典作成に没頭した。
 日本の伝統や風習などを取り込んだ法律にしなければならないと考えた顕義は、古典研究と神官養成の皇典講究所の設立にも関わる。同22年に所長に就任し、日本人の人種・習慣・風俗・言語など国家成立の要因、すなわち国体を明らかにするため、皇典講究所の改革を進めた。
 さらに、日本の歴史・文化・伝統に立脚した法律学校が必要だと考えた顕義は、宮﨑道三郎らと共に現在の日本大学の前身である日本法律学校を創立し、続けて、国法、国史、国文を学ぶ「私立国文大学」構想を実現する学校として、同23年に國學院(後の國學院大學)を設立した。その後、同23年に貴族院議員に選ばれ、同25年1月には枢密顧問官に就任した。
 こうして、今日まで残る司法制度、法律、教育機関を築き上げた顕義は同25年11月、生野銀山を視察中に倒れ、志半ばでこの世を去った。享年49。
 ナポレオンがフランスに残した功績はナポレオン法典と教育だと知り、以後日本でその実現に尽力した山田顕義の功績はナポレオンに匹敵し、まさに「日本のナポレオン」と呼ばれるにふさわしいものだった。

(2024年3月10日付 809号)