北条時宗/元寇から日本を守った英雄

連載・愛国者の肖像(19)
ジャーナリスト 石井康博

北条時宗が禅の修行をした鎌倉・建長寺

 北条時宗は建長3年(1251)年5月15日に相模国鎌倉で北条時頼と葛西殿の次男として生まれた。時頼が懐妊祈願、安産祈願までした正室の子であったため嫡男とされ、生まれた時から周囲の期待を背負っていた。幼いころから将来の執権になるべく教育を受け、康元2年(1257)にわずか6歳で元服。相模太郎時宗と名乗った。元服の際は盛大な儀式が催されたという。
 弘長元年(1261)10歳の時に、将軍宗尊親王による笠懸の催しで、父時頼に薦められて登場し、少しも物怖じすることなく、鮮やかに馬上から的を射抜いたという逸話が残っている。このように武芸にも秀でていた時宗は、父の影響もあり、建長寺を開山した蘭渓道隆に師事し禅の修行にも精進した。文永元年(1264)には13歳で執権の補佐役である連署に就任した。連署として同3年に将軍宗尊親王を廃位させ京都へ送還、子の惟康親王を将軍職に擁立している。同5年17歳で既定路線であった第8代執権となった。
 時宗が執権となった年の正月、高麗から元の国書を持った使節が訪れた。時宗は第7代執権で連署として支える立場になった北条政村、寄合衆の北条実時、安達泰盛、平頼綱と共に、モンゴルの国書について論議した。非常に丁寧な文言が刻まれていたが、内容は隷属せよということなので、時宗は一切返事を出さなかった。
 同8年(1271)にモンゴルの使節が再び来て、今度は武力で侵攻することを警告する国書を携えていた。時宗は九州の少弐一族をはじめとする西国の御家人に侵攻に備えさせた。また、国内での政権を盤石にするため、時宗は謀反を企てたとして不穏な動きをしていた鎌倉では名越教時と兄の時章、京都で六波羅探題(南方)であった異母兄北条時輔を誅殺した。(その後名越時章は無実であったことが判明している)
 文永11年(1274)10月、ついに元と高麗の連合軍約3万が日本を侵攻した(文永の役)。同月5日対馬に上陸、宗資国は80騎の手勢で迎え撃ち、奮戦したが多勢に無勢、全滅した。同14日は壱岐島に上陸、平景隆以下100余騎は抵抗したが、対馬と同じく全滅。元軍は島民を殺し、捕らえ、島民のほとんどが悲惨な運命を辿った。未曾有の危機が日本に訪れていた。元軍は同月20日には博多湾に上陸した。
 対する日本側は菊池武房の軍勢が赤坂の地に陣取った元軍に先制攻撃を仕掛け、敗走させる(赤坂の戦い)。さらに鳥飼潟の戦いでも勝利し、元軍副司令官の劉復亨(りゅうふくこう)は矢を射かけられ負傷した。日本軍の激しい抵抗にあい、元軍は船に帰還。夜襲にあう危険を避け、海上で待機することにした。
 その夜、元軍の船は暴風雨に遭い、多数の死者が出て、撤退した。「神風」が吹いたと後世では伝えられる。戦闘で勇気のある攻撃を繰り返し、抜群の強さを発揮した武士たちが日本を守ったのだ。
 翌年の建治元年(1275)に元から使節団が来たが、今度は鎌倉龍ノ口で処刑した。弘安2年に来た使節団も同じように大宰府で処刑。その後博多湾岸に約20キロに及ぶ石塁を築き、また浜辺には逆茂木などの障害物を設置するなど、元の再度の侵攻に備えた。京都では、この間に朝廷内で亀山上皇と後深草上皇との間に諍いがあったが、時宗の裁量で解決した。国内の憂いをこれで無くし、皇室の加護を受け、日本を一つにして元の侵攻に本格的に備えることができるようにしたのだ。
 フビライ・ハンはまだ日本侵攻を諦めず、再び日本に軍隊を上陸させる機会をうかがっていた。弘安4年(1281)5月に元と高麗連合軍総計約14万人が再び日本に侵攻した(弘安の役)。この頃のモンゴル帝国はその歴史の中で最も広い版図を持ち、世界最強を誇る軍隊を有していた。同月21日に対馬、26日には壱岐島に到達、博多湾へ向かった。しかし、元軍は迎え撃つ日本軍が準備万端に防衛線を張っているのを見て、上陸を一旦断念。6月6日に志賀島(しかのしま)を占領し、そこに軍船を停泊させた。
 そこで日本軍はその日の夜に志賀島に夜襲をかけ、8日には島に総攻撃を加えた(志賀島の戦い)。戦いに敗れた元軍は壱岐島へ戻る。29日壱岐島に日本軍が攻撃を仕掛けると元軍は敗走し、平戸島、鷹島(たかしま)へ撤収した。そこで後から日本へ来た元の援軍(江南軍)と合流したが、鷹島沖に停泊した元軍の軍船に対して日本軍は再度軍船で攻撃。海戦となる(鷹島沖海戦)。そして損害を与えた後、引き揚げた。
 7月30日の夜、台風が元の軍船を襲う。多くの元の軍船が沈没し、壊滅的な打撃を受け、撤退を開始した。再び「神風」が吹いたのだ。そして日本軍は閏7月5日に伊万里湾に残っていた元の軍船に総攻撃を仕掛け、元軍を一掃した。
 元軍は神風と呼ばれる暴風雨や台風に襲われ大きな打撃を受けたが、執権時宗の勇気ある決断と、勇猛果敢な鎌倉武士の奮戦によりまともに上陸させなかったことがこの勝利の原因であることには間違いない。鎌倉武士の勇猛さは元でも後世まで語り継がれたという。
 弘安7年(1284)4月4日、北条時宗は病気が悪化し死去。享年32。自身が開いた鎌倉の円覚寺に葬られた。執権になるべくして幼いころから教育を受けた北条時宗は、連署、そして執権となった時から早々と改革を断行し、鎌倉の政治基盤を盤石にしていった。また、国内の憂いをなくすために不穏な動きを抑えた故、敵方と内通する者は出なかった。時宗の勇気と政治力により日本が一致団結し、元の侵攻に対して果敢に対抗できたのだ。もし時宗が長生きしていたら、鎌倉幕府はもっと安定した政権になり、長く続いたに違いない。
(2024年5月10日付 811号)