禁中並公家諸法度で戦をなくす

連載・宗教から家康を読む(9)
多田則明

 

後水尾天皇

 武家諸法度とともに幕府は元和元年(1615)、朝廷や公家を統制する禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)を制定した。禁中は皇族、御法度は法律のこと。朝廷や公家を幕府の支配下に置き、武士が朝廷と姻戚関係などで結ばれ、徳川に対抗する勢力になるのを防ぐためである。
 日本の政治が安定していたのは、権威と権力が分離されていたからとされる。卑弥呼の時代はシャーマンの姉が神々に仕え、弟が実務を担当していた。その伝統は古代国家に受け継がれ、血統に基づく天皇が権威の象徴となり、公家や武家などの実務者が政治を行うようになる。これを覆し、天皇親政にしたのが後醍醐天皇の「建武の新政」だが、短期間で失敗した。権威と権力を一人の人物が握っていた典型が中国の皇帝で、政治的な失敗が権威の失墜に直結し、王朝は何度も滅んでいる。
 戦国時代から朝廷の権力は低下するばかりで、財政も破綻した朝廷は武士の援助を受け、その見返りに、高い官位を与え、公家の娘を嫁がせるようになる。朝廷への援助と引き換えに武士は勢いを増し、さらに朝廷の権威は低下していった。
 禁中並公家諸法度が作られたきっかけは慶長14年(1609)、猪熊教利(のりとし)という公家が起こしたスキャンダルで「猪熊事件」と呼ばれる。「天下無双の美男子」と称された猪熊は宮中の女性たちの憧れの的で、多くの女性と関係を持つようになる。これに激怒した後陽成(ごようぜい)天皇は、猪熊を京から追放したが、ほとぼりが冷めたころに京に戻ると、相変わらずの乱行を繰り返した。最終的に、天皇の命で関係者は死刑や流刑などに処せられたが、この事件を機に、朝廷や公家の行動を統制しようとする動きが高まり、諸法度が発布されることになったのである。
 家康の命で禁中並公家諸法度を起草したのは、後水尾天皇の師でもあった臨済宗の僧・以心崇伝(いしんすうでん)で、駿府城内に建立した金地院に住んだので金地院崇伝とも呼ばれた。当代きっての知識人である崇伝は武家諸法度や寺院諸法度も起草している。貿易立国を目指す家康のもとで明や朝鮮をはじめタイ、ベトナムなどとの交易や西欧諸国との外交文書の起草や朱印状の発行なども担当し、寺社などの規則も作った。
 諸法度は17条からなり、第1条は、天皇がすべきことは学問で、政治は幕府に任せてかかわらないように暗示している。以下の条項では、摂政や関白の任命に関するルールや、天皇・公家の服装など細かい取り決めがあり、本来は朝廷の特権であった改元についても幕府が口出しでき、幕府が任命した武家伝奏・奉行職の命令に背いた場合、流罪にするという規定もある。
 僧侶に向けた第13条から第17条で、特に重要なのが第16条の「紫衣(しえ)」に関する決まり。紫衣は天皇から徳のある僧侶に対して贈られる紫色の袈裟(けさ)のことで、朝廷の貴重な収入源でもあり、多くの僧侶に贈られていた。それを、本当に紫衣にふさわしい者か、しっかり見極めてから与えるように定めたのである。
 この禁中並公家諸法度は幕府と朝廷の対立を深めることになり、いろいろな事件が起こった。その典型が、後水尾(ごみずのお)天皇が幕府に相談せず十数人の僧侶に紫衣を許可したことで、寛政4年(1627)、幕府は禁制違反だとして、これまで与えられた紫衣まで取り上げ、さらに、一連の動きに抗議した僧侶を流罪にした。
 幕府からの干渉に不満をつのらせていた後水尾天皇は、「紫衣事件」を機に退位を決意する。後水尾天皇には皇子がいなかったこともあり、幕府は譲位を認めなかったが、幕府の了承を得ないまま、後水尾天皇は7歳の娘を明正(めいしょう)天皇として即位させ、譲位してしまう。もっとも、後水尾天皇は上皇として、明正天皇以降4代にわたり朝廷にかかわわり続けた。
(2024年1月10日付 807号)