両賀茂社の馬駆け神事

連載・京都宗教散歩(19)
ジャーナリスト 竹谷文男

下鴨神社の流鏑馬神事

 平安衣装の祭列が、京都御所を出発し下鴨神社(京都左京区)から上賀茂神社(北区)まで、加茂川沿いに都大路を歩む葵祭(勅祭賀茂祭)は、京の初夏を彩る王朝絵巻である。この前儀として、両賀茂社では馬を走らせる勇壮な神事が古くから斎行されてきた。

下鴨神社の騎射
 下鴨神社では5月3日、葵祭の始まりを知らせ、祭典の平安を祈る「騎射 流鏑馬神事」が斎行された。疾走する馬にまたがり弓矢で的を射る神事で、射手は公家風の束帯や武家風の装束に身を包み、境内「糺(ただす)の森」の馬路に立てられた三つの杉板を的にする。
 同神社の流鏑馬神事は千年以上の歴史があり、もとは「騎射(きしゃ、うまゆみ)と呼ばれ、公家行事として行われていたが、後に武家の行事となり「流鏑馬」と呼ばれるようになった。公家の武官束帯の装束を身につけ、王朝風の所作で行われるのが特徴で、一時、途絶えていたが昭和48年(1973)に復活した。2020年、21年は新型コロナウイルス禍のため一部の神事のみが、昨年は観覧席を減らして実施され、今年は4年ぶりに無制限で行われた。
 射手たちは5頭の馬に乗り、境内に特設された約500メートルの馬路を合計20回走る。馬上、上体を左にひねって弓を引きしぼり「イン、ヨー」という掛け声を発しながら一の的、二の的、そして三の的と立て続けに放ちながら走り抜ける。「イン、ヨー」は「陰陽」を表す。正方形の真新しい杉板に鏑矢(かぶらや)が当たると、的は真っ二つに割れて飛び散り、観客からは歓声と拍手が湧き起こった。見事的中すれば五穀豊穣、諸願成就と伝えられている。
 射終わった後、神禄の帛(はく)を賜る儀礼があり、射手は騎乗のまま鞭を差し出して帛を拝受し、肩に掛け、馬上で拝舞する。下鴨神社ならではの王朝風の所作である。
 公家の装束をまとい公家の作法と伝統に則って流鏑馬を行うのは、下鴨神社だけといわれている。飛鳥時代には「賀茂祭の日に多くの人を集めて騎射することを禁ずる」(『続日本紀』、文武天皇2年(698))と禁令が出るほどの賑わいだった。
 朝廷では射手の中心である武官の騎兵訓練として発展し、その後は武士の流鏑馬に継承された。平安後期に御所の北面の武士で、その後出家した西行が、鎌倉で源頼朝に乞われて馬上で弓を扱う所作を教えたのは有名な話。荒々しい坂東武者たちも西行の語ることに感心したと『吾妻鏡』に書き残されている。

上賀茂神社の「賀茂の競馬」

上賀茂の競べ馬
 続いて5月5日、上賀茂神社で斎行されたのは、吉田兼好が『徒然草』第41段にも描いた「賀茂の競馬(くらべうま)」。ここでは平安時代の雅楽姿をした馬尻(うまじり、騎手)が、2頭を駆って早さを競う。乗尻の装束が雅楽姿なのは、古来、走り終わった後に神前で舞を舞うことになっていたため。コースは一の鳥居から神山(こうやま)のふもと近くまで、南から北へ約150メートルを、天下太平と五穀豊穣を祈って競う。
 競馬は早さを競う神事であるため「競馳(きょうち)」とも呼ばれており、もともとは宮中で行われていたものを寛治7年(1093)上賀茂神社に移した。足利将軍や織田信長も観覧し、今年で930年の節目を迎えた。
 赤い装束をまとった馬尻は「左方(さかた)」、黒い装束の馬尻は「右方(うかた)」と呼ばれ、左方が勝つと豊作になるとされている。馬は日本古来の様式の馬具をつけ、試合前に馬体と馬具を神様と観客に見せながら、馬場をゆったり歩かせて馬に興奮させないよう馴染ませる。観客が多いと馬も興奮するので、手綱(たづな)を取って走路を9回ジグザグに折れながら一の鳥居まで「九折南下」することが定められている。
 2頭で走る前に、先ず赤の左方、黒の右方はともに単騎でお披露目の走りを見せる。最初に、左方が先頭を走る想定で乗尻が後ろ向きに、ムチも後ろを差したまま「追いつけるものなら追いついて見ろ!」と叫ぶような姿勢で走り抜ける。次には、右方が追いかける想定で「抜いてやるぞ!」とばかりにムチを前に差し伸ばしたまま走り抜ける。このデモンストレーションに観客からはどっと歓声が上がった。
 その後、左方右方の2頭による「競馳」が始まり、左方が1馬身離したまま両馬はスタートし、後発の右方との距離が開いたか縮まったかによって勝負を決める。蹄が土を蹴る音が境内に鳴り響き、両騎は飛ぶように走り抜ける。走り終えると審判の前に舞楽姿の騎手がまかり出て「お勝ちでござるー」などの声が上がると、観客からはどっと笑いの声が上がった。勝負は5回行われ、今年は左方の3勝2引き分けだった。馬場と観客席とを画する「らち」沿いに約3千人の観客が詰めかけ、平安衣装の優美で勇ましい競馬に歓声を送っていた。
 古代豪族だった鴨氏は、かつて神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、神武天皇)が日向から大和に上ってきた時、その行く手を先導した八咫烏(やたがらす)の子孫と言われている。今日まで両賀茂社の「勅祭賀茂祭」において、勇壮な走馬の神事が残されてきたのは、そのように戦いの先頭を歩んだ勇壮な血の記憶ゆえかも知れない。
(2023年6月10日付 800号)