葵祭「路頭の儀」4年ぶりに
王朝絵巻が都大路を進む/京都市
京都三大祭りの一つ葵祭で、平安装束に身を包んだ祭列が京都市内を巡行する「路頭の儀」が5月16日、4年ぶりに斎行された。快晴の同日朝、上皇ご夫妻が初めて観覧される中、800メートルの祭列は上京区にある京都御所の建礼門前を出発し、河原町通りから下鴨神社(賀茂御祖神社)を経て加茂川堤に沿った賀茂街道を北上し、上賀茂神社(賀茂別雷神社)に至る約8キロを歩んだ。
祭列の「本列」は、近衛使代が率いる男性たちの列で、近衛使代は銀面を着けた馬に乗る。それに続いてぎしぎしと車輪を軋ませながら牛車がゆっくりと進む。光沢のある黒い毛並みの逞しい牛が引いているが、日頃は牛車を引かないため、牛はこの日に向けてトレーニングを受けたという。その後に、艶やかな「女人列」が続いた。
女人列の中心は、専用の輿である「腰輿(およよ)」に乗る斎王代。今年で第65代斎王代の松井陽菜(はるな)さん(29)は、重さ20キロ以上の十二単をまといながらも穏やかな笑みを絶やさず、一日中続いた斎王代の御奉仕を務めきった。
祭列が下鴨神社境内の「糺の森」や並木が高く繁る賀茂川沿いを進むと、平安装束に新緑の木洩れ陽がそそぎ、ひときわ艶やかな絵巻となった。沿道には多くの観光客らが詰めかけ、カメラやスマートフォンで年に一度の祭列を撮影していた。祭列が到着した下鴨神社と上賀茂神社では賀茂の大神に到着を伝える神事が斎行され、東游(あずまあそび)の舞、走馬の儀などが奉納された。
路頭の儀の祭列は新型コロナウイルス禍で2020年から途絶えていて、今年は15日の予定が雨のため順延。この日は快晴の下、市内の最高気温は30度近くに上がり、人出は5万人を越えた。
賀茂祭は、祭儀に関わる全ての人、社殿の御簾、牛車に至るまでハート形の葉が特徴の二葉葵を挿し飾ることから、「葵祭」と呼ばれてきた。祭祀の起源は、太古において上賀茂神社の祭神である賀茂別雷大神が背後の神山に降臨された際、神託によって葵を飾り馬を走らせて神迎えの祭を行ったことに始まるとされる。また欽明天皇朝(540〜572年)に、鈴をつけた馬に猪の頭(かしら)を被った人が乗って走る神事を行ったことに由来するともいわれている。
平安時代に葵祭は朝廷の祭である勅祭となり、社頭の儀には一般の人々は拝観を許されなかったものの、その行列を見ようと都の内外から京の町に集まり、町は人であふれかえったという。その後中断されていたが、明治天皇が勅祭として復興され、さらに戦時による中断の後、昭和28年(1953)に葵祭の行列が復活した。かつて皇女から選ばれていた「斎王」に代わり、一般の未婚女性から「斎王代」が選ばれるようになって、艶やかな王朝絵巻が復興した。
勅使迎え「社頭の儀」厳かに
葵祭で最も重要な神事の「勅祭・社頭の儀」が、5月15日、京都市北区の上賀茂神社と左京区の下鴨神社で厳かに斎行された。社頭の儀とは、天皇陛下の使いである勅使が、陛下の御祭文を宮司に奏上し、取り次いだ宮司が賀茂大神の御神宣を、勅使に返して授ける平安時代からの神事である。
勅使は今年は、宮中の祭祀役である掌典職の羽倉信夫さんが務め、紅色の紙に書かれた御祭文を上下両神社で奏上した。御祭文は、上下両社を兼ねて一通のみ書かれている。そのため、まず下鴨神社で奏上を済ませた御祭文は、その後、上賀茂神社に収められる。
勅使の奏上を宮司は、本殿の神前に伝え(上賀茂神社では書かれた紙を奉納し)、賀茂大神からの「神宣」を受ける。権宮司は、跪いて神宣としての「返祝詞(かえしのりと)」を申し上げて手を拍つと、勅使もこれに応じて拍手(かしわで)を返す(「合せ柏手」)。そして宮司は、神前から頂いた神禄(しんろく)の葵を、勅使に授ける。この「神宣」と「返祝詞」は同じ内容で、これらの所作によって天皇から奏上された御祭文が、賀茂の神様に無事収められたことを表している。
社頭の儀には、翌16日の「路頭の儀」に第65代斎王代として参加する松井陽菜さんも加わった。
上賀茂神社で斎王代、「御禊の儀」
葵祭(賀茂祭)を彩る「女人列」の主役「斎王代」が身を清める「御禊(ぎょけい、みそぎ)の儀」が5月4日、京都市北区の上賀茂神社で斎行された。十二単をまとった艶やかな斎王代は、清らかに流れる境内の小川に両手を浸し、祭典が平安に行われるよう祈った。
「斎王」とは平安時代、天皇が賀茂大神への崇敬の念を表すために、神様の杖の代わりという意味の御杖代(みつえしろ)として、未婚の皇女から選ばれて神に仕えた女性。その斎王に因んだ形で昭和31年(1956)、京都にゆかりの未婚女性から「斎王代」が選ばれることになり、今年は京都市出身の松井陽菜が第65代斎王代に選ばれた。松井さんは中学3年生時からイギリスへ留学、ロンドン大学で金融論を学び、日本の大学院を卒業、現在は東京の外資系企業で働き、趣味は日本舞踊という。
御禊の儀は、斎王代が創設されて以来、上賀茂・下鴨の両神社において1年ごとに交代で斎行されていたが、新型コロナウイルス禍で中断し、4年ぶりに上賀茂神社で斎行された。
この日朝、斎王代は約50人の女人列を率いて御所から同神社に着き、境内の橋殿で神職によるお祓いを受けた。その後、斎王代は境内をゆったりと流れる御手洗(みたらし)川の岸ベに進み、川面に立つ2本の榊の前に着座。そして両手を合わせて静かに水面に差し入れて、身を清めた。
斎王代は再び橋殿に戻り、女人列一同は「形代(かたしろ)」による解除(げじょ)を行い、人形(ひとがた)に息を吹きかけて御手洗川に流してこの神事は終了した。
御禊の儀の後、斎王代である松井さんは「多くの人が伝統を守るために動いておられることを感じた。健康と幸せのために(お役目を)一生懸命果たしたい」と述べた。