米内光政/昭和天皇の信頼篤く

連載・愛国者の肖像(9)
ジャーナリスト 石井康博

 

米内光政

 米内光政は明治13年(1880)に岩手県盛岡市で旧盛岡藩士の米内受政(ながまさ)の長男として生まれた。同31年に海軍兵学校へ進む。卒業後、海軍士官となった米内は、明治38年(1905)に始まった日露戦争に海軍中尉とてして従軍、日本海海戦にも参戦した。大正3年(1914)に海軍大学校を卒業。同4年に第1次世界大戦中のロシアに駐在武官補佐官として赴任し、大戦後の同9年には敗戦国のドイツに派遣された。
 帰国後は「陸奥」艦長、第一遣外艦隊の司令官などを歴任。昭和5年には海軍中将として鎮海要港部司令官となる。同8年に佐世保鎮守府の司令長官になるまでの5年間、中華民国や朝鮮で勤務した。この間、読書で知識を蓄積し、内外の情勢を分析したことが、後の米内の判断に影響を与えたといわれる。中華民国には、敵対するより大きな心で友好的な関係をもった方が良いと考えていた。その後第2艦隊司令長官などを歴任した米内は無口で、大まかな性格だったと言われるが、部下を信じて清濁併せのむ大器で、尊敬され慕われていた。
 同11年に連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官に就任したが、同12年に林内閣の海軍大臣に就任する。首相の林銑十郎は外務大臣と文部大臣も兼任していた。陸軍が台頭した日本は難しい局面を迎え、ここは私心がなく、勇気のある米内が海軍大臣に相応しいという判断であった。当時海軍次官であった山本五十六の強い推薦もあった。
 第一次近衛内閣でも米内と山本は留任し、同7月に盧溝橋事件が起こる。その際「陸軍がまた始めた」と山本は怒り、米内も山本も陸軍の出兵に反対した。中国大陸は広く、すぐに制圧できないことを、米内は自身の経験から知っていた。しかし、結局陸軍に押し切られ、泥沼の日中戦争が始まることになる。そのころから客観的に分析し、正直な報告をする米内に昭和天皇は信頼をよせるようになっていた。
 同13年から日独伊三国軍事同盟の締結が検討されるようになると、米内と山本ははっきりと反対の立場をとった。もし、ヒトラーと手を組んだら英米を敵に回すことになり、経済的な圧迫を被るのは目に見えていた。米内は天皇陛下をヒトラーやムッソリーニと同一に扱い、一緒に心中させるのはとんでもないと考えた。同14年の平沼内閣でも米内は海相に留任したが、陸軍と右翼からの圧力が強まり、陸軍との関係は険悪になっていった。その後ヒトラーの独ソ不可侵条約の締結により、平沼騏一郎首相は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という言葉を残して総辞職し、米内も海相を辞職した。その際、昭和天皇は米内にお礼の言葉を述べられたという。
 同年9月にドイツがポーランドに侵入し、ヨーロッパにおいて第2次世界大戦が始まった。同15年に米内は昭和天皇に直接呼ばれ、内閣総理大臣として組閣をするようにとの大命を受けた。陛下は米内を信頼されていたのである。首相となった米内は新体制運動(一国一党での政治運営)には否定的で、ヨーロッパの戦争に対しては不介入の立場を貫いていた。ドイツが4月にデンマークに侵攻、5月にオランダとベルギーが降伏し、6月にはパリが陥落すると、「バスに乗り遅れるな」という合言葉が出て、親独の感情が国内で高まった。陸軍は米内と対立し、畑俊六陸相を辞任させ、後任を立てないという暴挙に出た。結局米内は総辞職を余儀なくされた。後日陛下は「米内内閣がもう少し続いていれば戦争にならなかった」と語られたという。
 その後第2次近衛内閣が成立。新体制運動を促進し、日独伊三国同盟を締結した。米内の努力もむなしく日本は戦争へと突き進んでいった。連合艦隊司令長官となった山本五十六は、真珠湾攻撃など、当初は華々しい戦果をもたらし、日本中が歓喜の渦に包まれた。しかし、アメリカは攻勢に転じ戦況は次第に悪化していく。昭和18年4月ブーゲンビル島上空で山本が戦死、米内は山本の国葬の葬儀委員長を務めた。同19年には状況がさらに悪化し、サイパン島も7月に陥落する。
 東条英機内閣が総辞職すると米内は再び小磯国昭と共に組閣の大命を受け、副首相格の海軍大臣となった。米内は気心の知れた井上成美中将を中央に呼び寄せ次官に据え、高木惣吉少将に極秘に戦争終結の研究をさせ、終戦の準備をした。米内は天皇の戦争責任が問われた場合、陛下をお守りするため、仁和寺の門跡に迎える準備も水面下で進めていた。
 鈴木貫太郎内閣でも米内は留任した。昭和天皇の御意志は終戦へと傾き、具体的な動きが秘密裡に進められていった。同20年7月26日にはポツダム宣言が連合軍から出され、ソ連が参戦し、原爆が投下された。米内は東郷茂徳外相らと共に終戦を強く主張したが、陸軍は反対。ついに御前会議で昭和天皇は「自分はいかになろうとも万民の命を助けたい」と語られ、御聖断によりポツダム宣言受諾が決定された。
 8月15日正午、玉音放送が流れる。同月17日に東久邇宮内閣が成立すると米内は海相として留任した。9月2日にはミズーリ号での調印式が行われ、日本は正式に連合軍に降伏した。幣原内閣でも海相に留任した米内は、11月にマッカーサー元帥と会談し、天皇陛下の地位を保証する意図を知り安堵した。11月で海軍省は廃止され、米内の海軍大臣としての役目は終わった。12月1日に米内は宮中に召され、昭和天皇は「米内にはずいぶんと苦労をかけた」とねぎらいのお言葉かけられ、記念に陛下ご自身が使っていた硯箱を受け取った。米内は帰り際、廊下に出るなり声を上げて泣き出したという。香淳皇后は米内を別室で涙ながらにいたわった。
 GHQは東京裁判で米内を戦犯に指名することはなかった。ただ、米内内閣で総辞職の原因をつくった畑俊六が裁判にかけられると、裁判の証人として呼ばれることになった。そしては米内は徹底して畑をかばう。その姿にアメリカ側の首席検事が大きな感銘を受けたという。昭和23年(1948)4月20日、米内は自宅で68歳の生涯を終えた。
 常に暗殺の危険に晒されても、昭和天皇のお気持ちを理解し、国のため、陛下のために命がけで重責を果たした米内光政の功績は、今も色あせることはない。
(2023年6月10日付 800号)