『抒情小曲集』『杏つ子』 室生犀星(1889~1962)
連載・文学でたどる日本の近現代(38)
在米文芸評論家 伊藤武司
金沢三文豪の一人
金沢市にある兼六園の雪景色はことのほか風趣に富み、そこから犀川をこえて西の方角へ行くと室生犀星記念館がある。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」で知られる犀星は、『高野聖』『婦系図』の泉鏡花、『あらくれ』『縮図』の徳田秋声と共に「金沢三文豪」と称される。今年亡くなった精神医で作家の加賀乙彦は祖父が金沢藩士で、犀星とは遠い血縁関係にある。
犀星は明治22年、金沢市裏千日町の生まれで、父は旧加賀藩士足軽組頭。望まれた子ではなく、私生児として真言宗雨寳院住職・室生眞乗にもらわれ、内縁の妻に託された。実父は犀星が10歳の時に亡くなり、生母は行方不明に。13歳で室生家の養嗣子(ようしし)となり照道と命名された。
金沢高等小学校を中退した犀星は裁判所の給仕になる。16歳ころから短歌を作り、地元の句会にも出席、雑誌・新聞に投稿し、詩も書き始める。青春期の生活は不安定で、金沢・福井・京都などを彷徨した末に上京し、北原白秋を訪ね、30歳で結婚する。複雑な家庭環境は犀星文学に根本的な影響を与えている。
愛郷心の篤い犀星は、四季の情景や愛を清新に歌いあげる文学的資質と天性の詩魂をもっていた。文筆家として生きるのが困難な時代に、いち早く詩に目覚め、あえて難しい詩人の道を選んだのだ。
北原白秋の影響を受けて大正7年、30歳の時に第一詩集『愛の詩集』、第二詩集『抒情小曲集』を自費出版し、白秋や萩原朔太郎から称賛され、詠嘆調の叙情詩人の立場を確立する。その一方で、散文にも筆を染め、自伝的な小説『幼年時代』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』の初期三部作を雑誌に発表し新進作家の地位を築く。大正9年には31篇、10年には40篇もの多作ぶりで、この分野でも成功する。
「ふるさとは…」は91篇からなる詩集『抒情小曲集』に収められた「小景異情その二」で、20歳のころの詩。東京での暮らしをつづった30篇以外は、郷里に関連したもの。文語体の後半部を引くと「そして悲しくうたふもの よしや うらふれて異土の乞食となるとても帰るところにあるまじき」となり、「ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや」で終わる。異郷の地にあって望郷の一念にかられている残像が心に焼きつくが、この詩は金沢の雨寳院で作られた。
青雲の志を抱いて上京した犀星は、夢破れて金沢に帰り、懐かしい故郷の美しい山河に親しもうとするが、かなわない。出生の秘密や負い目、失踪した実母への愛憎、養母への敵意と恐れ、周囲の冷酷な視線、消しがたい学歴へのコンプレックス、孤立感・焦燥感などにより故郷の風景は寒々としており、慰労されるものではなかった。『抒情小曲集』は、こうした内情をかかえて金沢の地で詠まれた悲痛な叫びである。
犀星は詩を「朗読しながら書いてゐた」という。やがて心休まらない故郷と訣別し、困窮の東京へ悄然と立ち戻る。明治44年に22歳で上京するが、三度の食事にも事欠き、結婚までの4~5年の間に8度も帰郷している。
犀星の抒情的詩や小説は、暗い生い立ちと血のにじむような彷徨から生まれでたものである。斎藤茂吉は無名時代の詩「滞郷異信」を絶賛している。島崎藤村が詩から小説に移行したのは、人生の挫折と懊悩、己の魂の救済を渇望した緊迫の決断とされているが、犀星は作家への道を大胆に突き進み、鮮やかに変身した。犀星の詩がうら悲しい調べであるように、自伝小説にも重く・陰鬱なムードがただよう。
抒情詩を愛する
犀星が世にでたのは大正デモクラシーの高揚期で、白樺派が台頭する中、犀星は独自の情緒詩に挑戦した。『月に吠える』の萩原朔太郎もこの時代の空気を吸いながら詩作に励み、二人は白秋主宰の文芸誌をきっかけに親交し、生涯影響し合うライバルになった。性格や作風や生活は異なるが『二魂一体の友』で、率直に述べあう交友録を発刊した。詩を文学的出発点とした朔太郎に対し、犀星は詩にこだわらず小説・随筆などへの広がりを見せた。近代詩の研究家・伊藤信吉は、短歌的な抒情詩人が朔太郎、犀星の詩は俳句を下地にしたスタイルと形容している。『室生犀星句集』や壮年期の労作『芭蕉襍記』もある。
詩集『抒情小曲集』『愛の詩集』は日本の近代詩史で記念的な位置を占めている。その特徴は、自然や人生など身近な事柄を素材に、人間の喜怒哀楽を抒情的に写し、瞑想的・直截的な審美性が深く心にしみわたる清冽な詩風である。
自序で「私は抒情詩を愛する。わけても自分の踏み来つた郷土や、愛や感傷やを愛する。…人間にたつた一度より外ない時代を記念したい」と熱い真情を吐いている。『愛の詩集』の一篇「何故詩を書かなければならないか」にも、「いまに見ろ この日本の愛する人人が 私共の詩を愛せずに居られなくなる…吾吾詩人は餓死しさうで 餓死することがないのだ 飢えと寒さとは いつもやつて来るけれど 吾吾は餓死しない…自分たちが詩をかくことは 生きてゆくことと同じだ」と謳った。
それは純真な芸術愛の噴出といえ、犀星の詩は中原中也、中野重治、三好達治、伊藤整、亀井勝一郎ら当時の文学青年たちの魂を揺さぶった。「かくことは生きてゆくことと同じ」という指向は、生きている証を得たいという渇望であり、それを実証するために書く、書かずにはいられないというパッションを屹立させている。中野重治は、「たえずパンに飢え愛に飢えていた人だ」と述べている。青春の放浪から抜けだし、人気作家として暮らしが上向きになると、『文學的自叙傳』の回想で「小説に書くのが商賣になり、お金ばかりほしがつてゐた」と率直である。
人情の交錯する陰影が織りなす独特な言葉遣い、文語体による現代語の詩や斬新な文章技巧の感覚描写は、同時代の作家たちから抜きん出ていた。奥野健男は『わが室生犀星讃』で、明治以降の文学者で時代を代表する第一人者、生命の横溢する「野生人」が生み出した「まさに天才と言うべき」芸術だと評す。散文もこれまでの文壇人にはない個性が光り、文章や文節は簡潔で会話も短い。これも俳句的な詩を詠んできたからであろう。
女の美醜を表現
『幼年時代』『性に目覚める頃』『或る少女の死まで』の三作は犀星文学の中心軸となる小説。書き出しを見ると、『幼年時代』は「私はよく実家へ遊びに行つた」、『性に目覚める頃』では「私は七十に近い父と一しょに、寂しい寺領の奥の院で自由に暮らした」、そして『或る少女の死まで』は「遠いところで私を呼ぶ聲がするので、ふと眼をさますと、枕もとに宿のおかみが立つていた」。
『幼年時代』の主人公は、実母と養母の家を行き来する無邪気な少年で、喧嘩や釣りに遊びまわる。学校では強情な暴れん坊で、しばしば先生から罰として居残りを命じられ「横面を撲られたり」する。養母の機嫌は悪く、小言で責めたてる。優しいのはお針子をしている姉と子犬ばかり。『あにいもうと』の純粋さをほめた正宗白鳥は、『幼年時代』になると「邪気がなくていいが印象希薄で淡泊過ぎる」と、白鳥の卓見である。
犀星が体験した真相はすさまじい風景で、養母は朝から茶碗酒をあおり、もらい子たちを折檻していた。姉は4人の子供の一人で、遊里へ売り飛ばされ出戻った私娼の義姉のこと。犀星は無教養な義母のために学校を辞めさせられていた。根深い恨み・憤りは膨らみ『復讐の文学』一篇を書く。読み書きを学べず、随筆『小説家といふ人間』では「いまだに假名づかひを知らない。漢字を知らず、あて字ばかり」と自虐的である。
奥野は、「このようであったらよかったと彼が願望するところの過去の創造」、「きわめて意識的な虚構の小説」であると断定し、事実を「捨象し、濾過し、純化することによって、幼年時代のかなしさが純一に結晶され」た作品になったと論評している。
犀星文学の一大特徴ともなった女性ものの原点は幼少期の虐げられた体験の蓄積にある。養母とのかかわりで女の深層心理を学習し、子供から大人、妻女、嫁、乳母、柔和な女性、老女、妖女、悪女に至るまで女の美醜をひたむきに表現した。
『或る少女の死まで』は、愛称「ポンタン」と呼ぶ少女との関係をつづり、家庭愛に飢えてきた作者が、本来の親子関係を欽慕する情緒が伝わる珠玉の一品。愛らしい少女の突然の死に、主人公は、追悼詩「ポンタン」を献げ感動的なクライマックスとなる。
犀星の個性的な手腕は、三度の停滞期をへ、女性の成型において昭和30年代から『随筆・女ひと』『舌を噛み切つた女』『杏つ子』となり、論者たちが驚きを隠さない傑作長篇『かげろふの日記遺文』『蜜のあはれ』に絶妙に生かされた。これらは映像化や歌舞伎座で上演されている。
『蜜のあはれ』は、全編が会話と対話体で、人間でいえば17歳前後の一匹の金魚がヒロイン。うら若き乙女のように話す変幻自在な金魚が、70歳の「おじさま」「おばさま」を相手に、魅惑的な妖しさや美しさをふりまく幻想小説である。
犀星自身と娘がモデルの大作『杏っ子』は1957年の発刊。「あとがき」には「最後の句読點をここに打ちこんで、文學のうへの悶々をはらひ退け、私ははればれとした」とやり遂げた充足感を披露した。
私生児として生まれた主人公・平山平四郎は新進の作家である。犀星はテーマの「血統」「誕生」「故郷」にそって幼少年期を振り返りながら、最後の「唾」までの半生を書きとおす。平四郎は一人娘の杏子がかわいくてたまらない。「娘といふものはその父の終わりの女みたいなもの」という哲学で、父親と娘との会話が淡々と、時々ユーモラスを交えた文章で描かれている。美しく大きくなる娘をかたわらに自分も立派な男親になろうと意欲をもつと、心配になるのは娘の将来である。杏子は結婚後、夫婦のドタバタの騒動で破局、再び父親のもとで暮らすことになる。
印象的な一節は「不倖せなんてものはお天気次第でどうにでもなるよ。人間は一生不倖であつてたまるものか」。芥川や百田宗治、菊池寛、佐藤春夫ら犀星の知人たちが登場し、久しぶりに故郷に立ち帰ると「おつとりした老母の品の好さを見せ」る継母がいた。あれほど嫌悪し恐れていた養母への感情も和らぎ、むしろ懐かしささえにじませている。
彼女が亡くなったのは犀星が40歳の時。その8年後の随筆集『薔薇の羹』の「母を思ふの記」には「自分は母のことを殆ど書き盡した。それまでは「峻烈に…無理無體に、母の上に尖つたペンを刺し透」し、「彼女の痩せた骨を穿つために過酷な鑿の手を弛めることはしなかった」が、「今、自分の眼に映る母は決して小説に書かれてゐる彼女ではない」と記している。悲運な出目、幼少期の辛酸をなめた閉塞感から解放されるためには長い歳月を要したのである。
金沢に犀星記念館
犀星は無数の俳句、歌集、詩集、現代小説、王朝物、前衛小説、作家論、随筆、評論、童話、戯曲に特有な世界を切り開いた。その文学は職人的才覚から編まれた美意識の光る芸術である。逆境や愛児の死を過ぎこし、『愛の詩集』で「自分は愛のあるところを目ざして行くだらう」との誓いを立て、夫として父として堅固な家庭を築いた苦労人であった。
1935年から42年まで芥川賞選考委員を務め、48年に日本芸術院会員となる。病臥の妻に先立たれた2年後、72歳で逝去。秋声・鏡花に次いで2002年、金沢に室生犀星記念館が開設された。
(2023年6月10日付 800号)