近代仏教の創始者・清沢満之

連載・近代仏教の人と歩み(3)
多田則明

「精神主義」の宗教運動を広める

清沢満之


仏教を基に宗教哲学
 『歎異抄』の再評価など近代仏教の誕生に大きな足跡を残した清沢満之(きよざわまんし)は生前、鈴木大拙らに高く評価されたが、死後長らく忘れ去られていた。清沢が再発見されたのは1965年、「中央公論」4月号の座談会「近代日本を創った宗教人100人を選ぶ」で司馬遼太郎が取り上げたのがきっかけで、今世紀になって岩波書店から全集が発行され、再び脚光を浴びつつある。
 清沢 (旧姓・徳永)満之は文久3年(1863)、尾張藩士の子として生まれた。勉強好きだったが家は貧しく、熱心な真宗門徒の母が通っていた寺の僧に勧められ、15歳で大谷派の僧侶になる。東本願寺育英教校で優秀さが認められ、本山の命で東京大学予備門から東京大学文学部哲学科に入学。在学中はフェノロサの哲学の講義に感銘を受けたという。
 井上円了らの「哲学会」に参加すると、同会の『哲学会雑誌』の編集を明治20年の創刊から5号まで担当する。大学を主席で卒業し、大学院に進学して宗教哲学を専攻するが、本山の要請により大学院を中退し、京都府尋常中学校の校長に赴任した。研究よりも本山の意向を重視する、清沢の律義さだった。並行して東本願寺の真宗大学寮で宗教哲学や西洋哲学史を講義する。明治21年に、現在の愛知県碧南市の西方寺に入り、清沢ヤスと結婚し、清沢姓になった。
 校長時代の清沢は優雅な暮らしぶりだったが、僧侶としての自覚から明治23年、中学校長職を辞任し、頭を丸め、「ミニマム・ポシブル」と称する禁欲生活を始めた。学寮での講義は継続し、講義録をまとめて明治25年に『宗教哲学骸骨』を刊行。仏教思想を基に独自の宗教哲学を構築したもので、関係者の注目を集めた。しかし、過酷な禁欲生活ため結核にかかり、教職を辞して神戸の須磨・垂水に療養。その間、「在床懺悔録」「他力門哲学骸骨試稿」を執筆した。
 明治29年、京都の白川村で同志と雑誌『教界時言』を発刊し、学問重視の宗門改革運動をけん引するが、当局の切り崩しで挫折し、明治31年に西方寺に帰った。
 明治32年、本山の要請で新法主の教導係として上京し、真宗大学(現在の大谷大学)の経営を引き受け、開校へ向け奔走する。翌年、本郷森川町の学寮を任され、「浩々堂」と名付け、多田鼎、佐々木月樵、暁烏敏ら門人たちと共同生活を始めた。彼らは清沢の死後も優れた真宗学者、仏教学者として、真宗界、仏教界をけん引するようになる。
 明治33年、浩々堂門人と雑誌『精神界』を創刊し、毎週日曜に講話を開いた。浩々堂の活動は「精神主義」として多方面に影響を与え、明治 34年、東京に移転・開校した真宗大学の初代学監を務めた。
 明治35年、清沢は長男の信一、妻のヤスを相次いで亡くし、同年、学内騒動により真宗大学学監を辞任し、西方寺に帰る。明治36年、41歳で死去した。

有限な人間と無限の宗教
 清沢の関心の核心は、有限な存在である人間が、どうすれば無限の宗教に接近できるかにあった。無限の力により有限が無限になっていくのが宗教の本質だと考え、それを学問的に究め、修行的な生活で「実験」しようとしたのである。それは、ブッダ以前のインド哲学がめざした「梵我一如」の近代的表現であり、それを身近な生活環境において実験しようとしたと言えよう。信仰を庶民に開放するには不可欠の道であった。
 宗教の根本は信仰だが、それは合理的な思考に反するものであってはならず、信仰と合理的思考は、相補的な関係にあるとした。そのため清沢は、哲学で学んだ明晰な言葉で宗教を語ろうとしたのである。
 清沢は、有限が無限につながる過程には二つのパターンがあるとし、一つは有限な存在の内部から無限の種が開花していくもの、もう一つは無限の大樹が有限な存在に無限を知らせ、導くものである。清沢は、前者が「自力門」で、後者が「他力門」だとした。
 そして、有限な人間が無限を感じるのは、世界のありとあらゆる有限な存在が、いずれも互いに有機的につながっている関係だと知る、無限の一部だと自覚することだとした。仏教的な縁の思想で、それを身近な生活から感得し、実感されることが重要である。
 では、無限と一体化した人間にとっての善悪、倫理とは何か。上記から、無限に向かうことが善であり、無限から遠ざかることが悪だとした。現実的には個人の良心や道徳に従うのだが、有機的な世界全体を意識しながら、正しいと思える判断、行動をするには信仰が不可欠だと清沢は考えた。
 つまり、宗教の内面化であり、寺に拠らない仏教信仰への勧めである。こうした清沢の思想は、まさに個の確立を要請された近代的日本人の倫理を目指すものであり、近代国民国家への国づくりに進む日本で、多くの知識層の共感を呼んだのは不思議でない。江戸時代からの檀家制度による習俗としての仏教から、人が生きる哲学としての仏教への変身である。

私の親鸞の発見
 清沢の影響を受けた文化人は正岡子規や夏目漱石、西田幾多郎、亀井勝一郎、倉田百三など数多い。結核で喀血した子規に宛てた清沢の手紙が、子規の「病床六尺」に書かれている。
 「第一、かかる場合には、天帝または如来とともにあることを信じて安んずべし。第二、信ずることあたわずば、現在の進行に任ぜよ、痛みをして痛ましめよ、大化のなすがままに任ぜよ。天地万物わが前に出没隠現するに任せよ。第三、号泣せよ、煩悶せよ、困頓せよ、而して死に至らんのみ。小生はかって瀕死の境にあり、右第二の工夫により精神の安静を得たり。これ小生の宗教的救済なり」
 自身も結核で苦しんだ清沢ならではの言葉である。
 清沢の大きな仕事の一つは、「善人なおもて往生をとく、いわんや、悪人をや」で知られる『歎異抄』を、一般人の宗教書として広めたことである。啓蒙思想の普及により、むき出しの「個」として生きることを強いられた近代日本人に、精神の立脚地を確立するための道筋を示したとも言えよう。それゆえ、『歎異抄は』今も読み継がれるベストセラーになった。信仰的に崇める宗祖親鸞聖人ではなく、生きる友としての「私の親鸞」の発見である。
(2023年5月10日付 799号)