美と宗教の山が生んだ富士信仰

連載・神仏習合の日本宗教史(13)
宗教研究家 杉山正樹

食行身禄像(旧外川家住宅所蔵)

 富士山は、いにしえの時代より日本人の崇敬の対象であった。美しい自然景観は勿論のこと、山体から放たれる峻厳な佇まいは、「霊峰富士」の威容で私たちを圧倒する。
 富士山の南西に位置する富士宮市の山あいでは、縄文時代中期、集落兼遙拝祭祀場跡とされる大鹿窪遺跡、千居遺跡が発掘されている。富士山が現在の秀麗な姿となるまで、記録に残るだけで18回の噴火を繰り返したという。噴火を繰り返し、噴煙を立ち上らせる「荒ぶる富士」の鎮爆のため、朝廷は祭祀を執り行ったと『続日本記』は記す。噴火は神の怒りなりとして鎮爆神・浅間大神が配祀される。火を制御する御神徳から、浅間大神は後世には木花開耶姫と同一視される。
 貞観6年(864)、富士山は「貞観の大噴火」と呼ばれる大規模な噴火を起こす。溶岩流が山あいを襲い、人や家宅に甚大な被害をもたらした。湖の魚が死滅し、後に青木樹海となる地形もこの時に生成される。朝廷は、甲斐・駿河国に浅間神の鎮謝を命じ河口浅間神社が造営される。鎮爆の祈りが通じたのであろうか、平安後期には富士山の火山活動が沈静化し、修験者が山中に分け入るようになる。
 富士山は修行の場、山頂は仏界の聖地となり、神仏習合のプロセスで浅間大神は浅間大菩薩、本地仏は大日如来とされた。多くの仏像が山中に奉納され、山頂の火口縁は密教曼荼羅の八台中葉院「富士山八葉九尊」に準えられる。室町時代に富士登拝は、広く一般大衆に普及するが、この機縁となるのが「富士講」の開祖・長谷川角行(かくぎょう)と中興の祖・食行身禄(じきぎょうみろく)の働きである。

仙元大菩薩御影

 角行(1541~1646)は、戦乱の世の安寧を願い、諸国巡拝の旅に出た修験者であった。修行の途上、役小角の夢告を得て富士の人穴(現人穴浅間神社)に籠り、千日間の立行(幅14センチの角材の上での爪立行)、木食行などの荒行を重ねた。仙元(浅間)大菩薩から「御富世貴(おふせぎ)」「御身抜(おみぬき)」という呪符と曼荼羅を授かった。江戸で疫病が蔓延した折、この護符を数万の人びとに配布して彼らを救済したという。角行の教えは弟子たちに受け継がれ、吉田口登山道の繁栄と後の「富士講」の流行につながる。「富士は世界の鎮守」「天地の始、国土の柱、天下参国治、大行之本也」として富士信仰を庶民に広げた。
 身禄(1671~1733)は、伊勢国の生まれで江戸に出て行商人となる。17歳の時、富士行者の月行(げつぎょう)との出会いにより富士信仰を入信。身禄は、修験道的な呪術・加持祈祷を否定し「四民平等・男女平等」「勤勉力行・諸事倹約」など、道徳規範を信仰の原点とした。生来の勤勉実直さにより莫大な資産を築くが、晩年には全財産を残らず使用人に分かち与え、妻子とともに質素な暮らしを始める。63歳の時、万劫の衆生の苦を一身に背負い人柱となることを決意し、富士山中の烏帽子岩(現烏帽子神社)にて入定する。入定前に口述遺訓した「三十一日ノ巻」が民衆の間で大反響を呼び、富士山に登拝するための「講」が各地で組織される。
 江戸時代末期、「富士講」は「江戸八百八町に八百八講」と称されるほど庶民の間で大隆盛をみた。関東一円に富士塚と呼ばれる小型の富士山が築かれ、また「御師(おし)」と呼ばれる宿坊が数多く開設され道者の信仰を支えた。

大正期の富士講(富士ミュージアム所蔵)

 ところが、明治初期に発布された神仏分離令は、富士山から仏教色を一掃する。「富士講」は、甚大な影響を受けるが、一部は教派神道の実行教、丸山教、扶桑教に受け継がれていった。
 北口本宮富士浅間神社は、山梨県富士吉田市上吉田にある旧県社の別表神社。社記には、「景行天皇四十年(110)、日本武尊東征討の帰路、上吉田の大塚山にて戦捷祈願して富士山霊を遥拝す」とある。富士登山吉田口登山道の起点にあたり、世界文化遺産の構成資産の一つに登録されている。
 享保19年、角行六世弟子の村上光清が私財を投げうち、11年の歳月を費やして衰亡していた境内社殿を大造営した。山道の中ほどには、角行がその上で爪立ち修行をしたとされる立行石が安置される。富士信仰の歴史を感じさせるのみならず、富士山の霊脈が直接降り注がれる有数のパワー・スポットとなっている。
 近代に入ると鉄道・自動車道等が整備され、富士信仰は観光や遊興を目的としたものに様変わりする。とはいえ、「日本人の心の山」富士の魅力が色褪せることはない。「不二の山、登りてみればなにもなし、よきもあしきもわが心なり。」富士信仰への態度を詠じた身禄の道歌は、時代を越えてそれを語りかけているようである。
(2023年5月10日付 799号)