憂国の畠山勇子が眠る末慶寺

連載・京都宗教散歩(18)
ジャーナリスト 竹谷文男

畠山勇子の墓

 かつて平安京の皇居である大内裏に通じていた大宮通りは、御所が鴨川に近い場所に移ってしまった今、往時の賑わいはなく、通りを一筋か二筋か奥に入ると静かな小路となる。そんな京都の下町とも言える大宮通りの松原(下京区)に、末慶寺(まつけいじ)という閑静なお寺がある。阿弥陀如来を本尊とする浄土宗西山禅林寺派の寺で、門前には「烈女畠山勇子墓」があることを示す石の案内標が立っている。しかし、今ではこの女性の名を知る人はそれほど多くはない。
 明治24年(1891)5月11日午後、来日していたロシア帝国ニコライ皇太子(後の最後のロシア皇帝ニコライ2世)は滋賀県大津で、警察官津田三蔵に切りつけられて負傷、日本国中に緊張が走り不安が渦巻いた。13日には明治天皇が、京都の常盤ホテルに静養していた皇太子を見舞うなど、日本はロシアとの紛争になるのを防ごうと朝野を挙げて対応に腐心した。19日、神戸港からニコライ皇太子は天皇に見送られて帰国の途についたが、この間、多くの日本人は生きた心地がしなかった。
 東京に住んでいた勇子はその5月19日の夜、新橋からひとり夜行列車に乗り込み、翌20日、京都に到着した。その日一日は、本願寺、清水寺、知恩院などを参詣し、さらに日頃使っている日本剃刀(かみそり)を理髪店で研いでもらった。そして夕刻になると京都府庁の前で、絶命する際に着物の裾が乱れないように両足を布で固く縛って正座し、剃刀で自らの喉を切った。
 勇子は千葉県鴨川出身の27歳で、東京で縫い物をしながら慎ましやかに生計を立てていた、いわゆる“お針子”だった。現在に残る京都府庁旧本館(重要文化財)は、その後、明治37年(1904)に建てられたものである。

勇子の墓のある末慶寺

 勇子は、ロシア政府、日本政府、それに親族への遺書を10通残し、明治天皇の立場を慮り、自らの死によってロシアに詫びようとしたという。遺品は、身につけていた質素な品々のみ。着ていた服は粗末なものばかりで、晴着などの高価なものは質に入れ、旅費を工面したのだった。他には剃刀、手鏡、小銭を入れるがま口など。がま口には勇子自身の葬式代として五円が入っていた。
 この勇子の事件は日本中だけでなく諸外国をも、特に当事者であるロシア帝国を驚かせた。事件後、ロシアから日本に対して賠償金の請求も武力による報復もなく、一応は穏便に収まった。そのため戦前は、「烈女勇子」として喧伝されることが多かったが、現在では個人の命を政治的に利用することが憚られるためか、特に広めようとする空気はない。
 勇子の眠る末慶寺の墓地は陽当たりがよく、きれいに掃除されていた。その一画に、自然石の勇子の墓石が毅然と立っている。墓石は高さ3メートルほど、巾1メートルほどで濃い緑色をしており、南側の表面だけが真っ平らに削られ、太く勢いのある書体で「烈女畠山勇子墓」と彫り込まれている。喧噪から離れ、町の風景に溶け込んでいる小綺麗なお寺の墓地にひっそり置かれた墓石は、陽を浴びていかにも自然な強さを発散させているかのようだった。墓石には、京都府民の有志が建てたことが記されている。

京都府庁旧本館

 勇子の事件が起きた頃、島根県松江市に居住していて、後に帰化したイギリス人ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、4年後の明治28年(1895)末慶寺を訪ねたことを、エッセイ『京都紀行』に書いている。ハーンは勇子の墓前に立って「壮烈にして無私なるこの犠牲者の霊に心から敬意を表した」という(同書)。ハーンが興味を持ったのは自決にまで至る勇子の動機、心情、そして背景となる日本文化だった。
 ハーンは、勇子が特別の身分、例えば巫女や尼僧のように神仏に身を献げる女性でもなく、また高い教育を受けたり、一芸に秀でた女性でもないことに感銘を受けたという。実際、勇子は慎ましやかに縫い物をして生計を立てていた市井の貧しい、日本中のどこにでもいるような女性だった。それについてハーンは「およそ実際生活において、高潔な行いをするものは概して平凡人なのであって、非凡な人間ではない」(同書)と書いた。
 特にハーンの心を打ったのは、勇子が日頃使う彼女の手鏡の裏に書き付けていた一首の和歌である。「くもりなく こころの鏡 みがきてぞ よしあしともに あきらかに見ん」と、市井の貧しいお針子の一人だった勇子が、何を思って毎日生きていたかを、誇ることなく素朴に表現していた。
 ハーンは、勇子が鏡の裏に書き付けた「この短い歌の中に、西洋のおおかたの月並みな理想主義なんぞよりも、はるかに多くの真理が含まれている」(同書)と述懐している。