仏教を哲学にした井上円了

連載・近代仏教の人と歩み(2)
多田則明

心の近代化を求め妖怪学を講義

井上円了

妖怪学を全国で講演
 明治20年頃、日本中に奇怪な現象「こっくりさん」が蔓延した。これを調査し、実験によって、人間の心理作用が原因なのを明らかにしたのが哲学者の井上円了である。越後の浄土真宗の寺に生まれた円了は、東京大学で最先端の哲学を学び、東洋大学の前身「哲学館」を創設。さらに講演で庶民の啓蒙に尽力しながら、妖怪や怪奇現象などの解明に奔走した。自分自身で考え真偽を見極め、日本人の「心の近代化」を求めるという意味で、哲学と妖怪学は円了の中で一貫していた。
 円了を襲った生涯最大の危機が哲学館事件。教え子の答案が、国の体制にとって危険だと糾弾され、廃校の危機に見舞われた。円了は、自由な思考を制限する国策下の教育に限界を感じ、庶民に「ものの見方・考え方」を啓蒙する全国巡講の旅を始める。生涯をかけ、5400回を超える講演で140万人に語り続けた円了は、日本近代化を象徴する人物の一人と言えよう。
 円了が妖怪学を唱えたのは、迷信や偏見にとらわれず、自分の理性で考えることこそ哲学、合理主義の近代日本を象徴する学問だったからだ。円了は妖怪を「道理で解釈できない不思議な現象」と定義している。
 円了は哲学の普及を目指して講演旅行しながら全国の妖怪現象を収集し、全6巻の『妖怪学全集』を著した。日本民俗学の創始者、柳田國男が伝承をかなり脚色したのに比べ、井上は素材のまま記録しており、現在では史料的価値が高まっている。
 円了が最初に取り上げたのは幽霊で、子供を残して死んだ母親の悔いは強く、いろいろな子育て幽霊の話がある。円了は「物理的にはあり得ないが、心理的には存在し得る」と解釈。ちなみに、水子供養がはやりだしたのは1970年代以降のことで、現代でも妖怪が再生産されているのが興味深い。
 「親の因果が子に報い」はいかにも仏教らしいが、インド仏教には親の過失を子が肩代わりするという考えはなく、中国の儒教文化で変容したもの。植物や物にも命を認めるのは日本的発想で、長く使った道具などに霊が宿り付喪神(つくもがみ)になったりする。天台宗の本覚思想を生んだ日本的感性と言えよう。
 呪いと祝いとは字も行為も似ていて、対象への強い思いから生じる。一目見た若い僧に恋し、裏切られて恨んでしまう道成寺の話など、今からは理不尽に思えるが、家から出ずに育てられた娘には、そんなことも起こり得たのだろう。
 円了は「妖怪学は全知全能の学」と述べ、哲学を愛しながら妖怪を否定せず、むしろ、好奇心の源として、知のワンダーランドに取り組み、日本民俗学の先駆となったのである。
 哲学を学んだ円了は寺に頼らない個人の信仰を求めるようになる。江戸時代からの寺檀制度に浸りきっていた仏教者にとって、寺院によらない信仰、教団に属さない宗教実践は夢想だにしないことだったが、啓蒙思想の洗礼を受けた円了は、それに果敢に挑戦した。
 円了の問題意識は改革的な仏教者の共感を得て、境野黄洋らの仏教同志会の結成や、在家主義を徹底させた田中智学の立正安国会、真宗を近代化させた清沢満之の精神主義などに展開し、無教会主義の内村鑑三も影響を受けている。

真理は哲学にあり
 円了は安政5年(1858)に新潟県長岡市の慈光寺に生まれた。10歳から漢学を学び、旧長岡洋学校(現在の新潟県長岡高等学校)で洋学を学び、京都の東本願寺(真宗大谷派)で給費生に選ばれ、創立間もない東京大学に入学した。 ここで、哲学と出会い、真理は哲学にあることを確信する。
 幕末から明治にかけて、世界と出会った日本が急速な欧化主義に流されるのを見た円了は、日本人が心の拠り所を取り戻すには、哲学による「ものの見方・考え方」を育てるしかないと考え、29歳の若さで「哲学館」を創立した。
 幼少の頃から身近にあった仏教を西洋哲学の目で見直した円了は、そこに東洋哲学が脈々と流れていることを発見する。東大在学中から独自の宗教論、哲学論を『明教新誌』に連載し、後に『真理金針』『仏教活論序論』を刊行。いずれもベストセラーとなり、円了は一躍有名人に。
 円了は東大卒業の前年に「哲学会」を結成し、『哲学会雑誌』を創刊。その中で「哲学は思想の法則・事物の原理を究明する学である。そのため、思想の及ぶところ、事物の存するところ、一つとして哲学に関係しないものはない」「諸学の基礎は哲学にあり」とし、「哲学の研究・普及が国家・社会の文明を発展させるために不可欠」で、さらに「西洋哲学の研究に加えて、東洋哲学の研究が必要」だと主張した。
 私立「哲学館」は現在の文京区湯島にある麟祥院に創立された。16歳以上の男子を対象に、普通科1年、高等科2年で定員50人。哲学、心理学、社会学などの科目を教えた。創立半年後に『哲学館講義録』を出版し、今の通信教育の先駆けとなる。
 生涯で三度、長期海外視察に出た円了は、哲学館を大学に発展させる計画を表明し、哲学館創立の2年後、現在の東洋大学白山キャンパスの地に校舎を移転した。明治37年(1904)、専門学校令による「私立哲学館大学」として再出発し、明治39年に「私立東洋大学」と名称変更。東洋に独自の哲学大学をという円了の意向からである。

全国巡講という「田学」
 48歳になった円了は学校から身を引き、全国巡回講演の旅に出る。海外視察で訪れたイギリスで触発された社会教育の普及のためであった。官尊民卑の時代に、日本人の心の向上を目指し、人々に哲学を説く学問を、円了は「田楽」にちなみ「田学」と称した。
 演題は、勅語、修身、哲学、宗教、教育、実業、迷信、妖怪、西洋の実情、海外移民の近況など多岐にわたり、哲学を基礎に「ものの見方・考え方」を語ったのである。
 巡回講演の旅は旧満州の大連での講演中に倒れ、61歳で永眠するまで続いた。円了の訃報は世界に配信され、ニューヨークタイムズは「井上円了博士 著名な日本の心理学者 満州(大連)に死す」と報じた。
(2023年4月10日 798号)