真言密教により「両部神道」が成立

連載・神仏習合の日本宗教史(12)
宗教研究家 杉山正樹

最古の古事記写本(真福寺所蔵)

 教理を持たない神祇信仰は、仏教の影響を受けつつ理論化が進み、「神道」として確立し発展を遂げる。11~12世紀の院政期・中世の朝廷では、既に「神道」の自覚が生まれていたという。仏教を媒介として解釈が施された神祇信仰は、「神道」として再認識され、民族宗教としての系譜を辿ることとなる。神仏習合というダイナミズムが、これを可能にしたと言う他はない。
 比叡山の日枝社(現・日吉大社)では、地元民が祀る土地神を、天台教学の教理で理論的に解釈する動きが起こっていたが、神道教説化の初見として知られている。神宮周辺では、行基の参宮、これに続く重源(東大寺再建事業を主導)と衆徒の伊勢神宮参詣、および大般若法楽を画期とする緇徒による参宮ブームが起こり(伊藤聡『神道とは何か』中公文庫)、僧侶と神宮が接近する環境が生まれていた。これが神道教説化に弾みをつけ、外宮・御厨(みくりや)の仙宮寺(開基は行基、現存せず)がその拠点となった。
 日枝社の教理解釈では「山王神道」として、神宮では真言密教による教理解釈で「両部神道」として確立された。神祇信仰は、仏教の世界観で包摂された結果、日本の神々が仏典の神々の仮の姿として理解された。「山王神道」では、鎌倉期の天台僧・義源が著した『山家要略記』が著名な神書であるが、山王の諸神のすべてが、仏法の守護神として論じられている。
 「両部神道」においても『記紀』の神々が、密教の教理で再構築され、天照大神の本地は大日如来とされた。神宮の神域では、道鏡の皇位託宣事件以降、神仏隔離の原則が貫かれていたが、神官の個人の信仰レベルでは、現当二世の利益を願い、仏菩薩への救済が求められていたという。神宮の内外宮は、胎蔵界・金剛界に準えられ「両部」の名称はここに由来する。内外宮を統べる習合した天照大神=大日如来を祀る神宮は、この故に余社よりも格上とされ、祭神・社域・別宮・末社・社殿・心御柱・御形文についても密教的な解釈が施された。

大須観音

 実践面では、醍醐天皇が神泉苑の龍女から授かり、空海が撰述したと仮託される『麗気記』が成立し、神道灌頂に関する奥伝の数々が伝授された。また「両部神道」の他の代表的な神書である『中臣祓訓解』では、「中臣祓」の祓詞に密教的な注釈が施され、第六天魔王(仏教障碍の魔王)が、大日如来に日本国の天子の璽を与えたという秘文が附される。これは、八尺瓊勾玉および神宮の仏教禁忌に纏わる深義の嚆矢となっている。
 「両部神道」に呼応するように、やがて外宮祠官であった渡会氏が、内宮と外宮の等位性、神本仏迹説を前面に打ち出す「伊勢神道」を確立する。「凡そ神は正直を以って先となし、正直は清浄を以って本となす」。正直と清浄を最も重要な道徳律として確立する「伊勢神道」は、『神皇正統記』を顕した北畠親房に影響を与え、近世神道の全国への展開をもたらす。
 「神道」はその後、応仁の乱後の神道界の混乱を「根本枝葉果実説」で収集し、まとめ上げようとした吉田兼倶の「吉田神道」、仏教色を排し儒教による教説化を図った「儒家神道」、本居宣長らの「復古神道」国学の誕生を見る。
 「両部神道」は、仏教色の強い「仏家神道」であったが、「神道」が民族宗教としての自覚を持つ極めて重要な淵源となるものであり、わが国の神仏宗教界の基層に今もなお、脈々と息づいていると言うことができよう。
 名古屋市中区大須の北野山真福寺寶生院は、「大須観音」の愛称で知られる真言宗智山派の別院で、日本三大観音の一つとされる観音霊場である。開山は能信上人で、元弘3年(1333)、後醍醐天皇の命により北野天満宮別当職を拝し真福寺となす。元々は、尾張国中島郡長庄大須(現・岐阜県羽島市桑原町大須)にあったものを慶長17年(1612)、徳川家康の命により、本尊や「真福寺文庫(日本三経蔵の一つ)」と共に当地に移転された。寺内の「真福寺文庫」には、多数の仏教典籍・中世神道資料が所蔵され、『古事記』の最古写本(国宝)、『麗気記』の最古写本とその関連書籍など、歴史的に比類のない寺宝群を構成している。
 本堂は、名古屋大空襲で2度の罹災・焼失を余儀なくされたが、昭和45年に再建された。名古屋出身の筆者も子供の頃、よく通った「大須観音」、当地のシンボル的な存在として、多くの参拝者に親しまれ愛され続けている。
(2023年4月10日付 798号)