小辻のユダヤ教改宗とエクソダス

連載・京都宗教散歩(14)
ジャーナリスト 竹谷文男

ユダヤ人自治州ビロビジャン駅名はキリル文字とヘブル文字で記されている(1993年秋、筆者撮影)

 下鴨神社がある旧・下鴨村の村長の家に生まれて牧師となり、米国でユダヤ教を研究し、ユダヤ専門家として南満州鉄道の総裁顧問となった小辻節三は、旧満州で暮らした後、太平洋戦争が始まる前に日本に帰った。そして杉原ヴィザによって神戸に逃れてきたユダヤ難民達の出国を助けたが、その後、小辻は、ナチスの反ユダヤ政策の影響を受けた日本の特高警察から監視されるようになり、昭和20年(1945)6月、一家で満州に渡ってハルビンに住む。小辻は1939年にハルビンで開催された第3回極東ユダヤ人大会で、日本代表としてヘブライ語で演説をしたことがあり、多くのユダヤ人知己が住んでいた。
 だが、その2か月後の8月9日、ソ連軍が満州に侵攻し、小辻一家は困窮する。今度はハルビンのユダヤ人に助けられ、1946年10月、一家は無事に帰国することができた。
 帰国した小辻はユダヤ教やユダヤ文化の研究と教育を続け、60歳の1959年、エルサレムで割礼を受けユダヤ教に改宗した。日本人初のユダヤ教徒の誕生を、神戸で助けたユダヤ人やその子孫達が集まって祝福してくれた。小辻は73年10月31日、74歳で鎌倉で死去、遺言は「イスラエルに埋葬を」だった。当時、第4次中東戦争(73年10月)直後の混乱期で、テルアビブ空港は閉鎖されていたが急遽、開かれ、防腐処理が施された小辻の遺体は英国経由で空港に着き、エルサレムの墓地に埋葬された。

ビロビジャンのユダヤ人中学校で踊る生徒達(1993年秋、筆者撮影)

 戦後、ユダヤ難民の大きな問題は、ソ連に取り残されたユダヤ人の処遇だった。多くは極東部にあるビロビジャン・ユダヤ人自治州に住んでいた。スターリンは1934年、ソ連内のユダヤ人を、中ソ国境を流れるアムール川(黒竜江)のほとりのアムール州の一部に集め、自治州をつくらせた。シベリア鉄道の途上、満州を流れる松花江がアムール川に合流する場所で、もしも関東軍がハバロフスクに進軍すれば、最初に通過する戦略上の要地でもあった。ここにユダヤ人自治州をつくれば、関東軍に対する盾になり、世界中のユダヤ人が日本を非難するだろうという読みがスターリンにはあった。だが、ユダヤ人はスターリンの戦略を逆手にとって生き残りの道を選び、その地にユダヤ人自治州を建設した。このユダヤ人が戦後20年以上たってもソ連から出国できずにいた。
 小辻の死の翌1974年、ソ連のユダヤ人を救出する引き金となる法律が米国で成立した。米国の法制史上、前代未聞の絶妙な効果を生み出した「ジャクソン・ヴァニック修正条項」(通商法)である。それは「移動の自由を禁じている国に対しては最恵国待遇を与えることを制限できる」という条項で、ソ連に適用すれば「ソ連のユダヤ人の出国を認めないなら、最恵国待遇を制限する」ことになる。
 これには一つの歴史的背景があった。ブレジネフ政権下のソ連国内では農産物の不作が続き、人々は飢餓に苦しんでいた。一方、米国では小麦の豊作が続いて価格が暴落し、農家の多くが破産の危機に瀕していた。ソ連が米国から小麦を輸入したくても米国には共産国に対する貿易制限があり、小麦を自由に輸出できなかった。このジレンマを解決し、かつソ連内のユダヤ人の出国を可能にするのが上記の修正条項だった。「ソ連が国内のユダヤ人の出国を認めるなら、小麦を米国から買うことができるようにしよう」ということだ。これによってソ連は米国から小麦輸入が可能となり、米国農家は破産をまぬかれ、ソ連のユダヤ人は出国できる。実際は、ソ連は小麦の対価を米国に払う一方、当時ソ連がユダヤ人の出国に際して課していた多額の税金を、世界中のユダヤ人社会が負担することになったが、ともかくユダヤ人はソ連から出国できた。このようにジャクソン・ヴァニック修正条項はあくまで通商法上の規制で、ユダヤ人の「ユ」の字も出てこないが、実際にはユダヤ人をソ連から救出する引き金となった。
 米国の打った絶妙なクサビは、手品のように、銃火を交えることなくソ連から大量のユダヤ人の救出を可能にし、ソ連邦解体後、数年のうちに数字の上では、ほとんどのユダヤ人がソ連から出国した。モーセがエジプトのパロを欺いて劇的に紅海を渡った出エジプトや、第二次世界大戦の開戦時にヒトラーとスターリンの謀略の狭間を突いてリトアニアに逃れたユダヤ難民を、超法規的なヴィザ発行によって救った杉原の決断とは異なる形だったが、静かで鮮やかな脱出劇、エクソダスだった。(2022年12月10日付 794号)