『日蝕』『葬送』『決壊』平野啓一郎(1975〜)

連載・文学でたどる日本の近現代(32)
在米文芸評論家 伊藤武司

鮮烈な作家デビュー
 すい星のごとく出現した、という形容がぴったりの作家が平野啓一郎。その鮮烈な登場は文壇を騒がせた。文筆の才は平野の擬古的な文体に接すれば一目瞭然である。
 愛知県蒲郡市に誕生した平野は、高校時代に80枚の習作を書き上げた。処女作『日蝕』で芥川賞を射止めたのは23歳の京都大学の学生時代のこと。当作は前年、文芸誌「新潮」に一挙掲載された。無名の学生の電撃的デビューはメディアの話題をさらい、三島由紀夫の再来といわれた。
 平野は中学時代に『金閣寺』を読み、その文体に衝撃を受け傾倒するようになったという。プロの作家になると、創作を中心にテレビ出演や講演もこなし、文化庁派遣の文化大使としてフランスに1年間赴任している。
 平野文学の特徴は、洗練された知的で明晰な文体による耽美的な語彙にある。三島をはじめ川端康成、谷崎潤一郎らから、ランボー、ボードレール、バルザック、トーマス・マンらの文学を咀嚼し、固有の文体と心構えで思想的な地盤を構築していった。
 二作目の『一月物語』は、最も審美的で透明感のある作品。背景は明治30年の奈良十津川村。夢幻的な世界に蝶にいざなわれ、迷いこんだ青年が運命的に出会った美女との恋は、成就し難くみえる。生と死が融和した擬古文は深い味わいがあって美しく、『雨月物語』や泉鏡花の作品を想起させる。
 三作目の長篇『葬送』の舞台はフランス。第一部を雑誌に連載し、二部が書き下ろし2500枚の大作。寺院での葬儀が始まるシーンが冒頭にあり、夭逝した天才ピアニスト、フレデリック・ショパンがクローズアップされている。ショパンの人となりや女性遍歴を、ロマン主義を先導した画家ドラクロア、文筆家ジョルジュ・サンドら芸術家との交友関係を交えながら綴り、華やかなパリ社交界やサロンでの情景が鮮やかに再現される。サンド夫人を仲介に知り合ったショパンと12歳上のドラクロアの実像と芸術家としての描写が印象的である。畑こそ違え、「霊感というものは、案外誰にでもあるものだよ。けれども、それを色や形によって、或いは音によって表現する為には、特別な技術が必要な筈だ」とは、親しくなった二人の芸術家の一致した認識であった。
 ショパンは「誰もが彼を晩餐に招きたがり、その演奏を聴きた」がる「サロンの寵児」であり、ドラクロアもパリでは「既に世に風評の轟く著名な画家の一人」。装飾画に優れた技術をもつドラクロアは「大きな仕事を…手掛けたい」と願うが、それ以上に「とにかくも、描きたいという強い欲求があった」。そして、ミケランジェロ、ルーベンス、ラファエロを語り、ハイドン、モーツアルト、ベートーベンを論じる。著者は社交界を行き来する二人を交互に追いながら、芸術家の実生活をてぎわよく活写する。
 その際、作曲に苦慮するショパンの様子や、演奏の厳格さ、内奥の心理的情念、体調不良と病魔に襲われてからの苦悶の日々がリアルに表現され、精妙な心模様を細やかなタッチで練り上げた純文学作品である。
 大作の資料収集と執筆にそれぞれ半年をかけ、フランスの芸術家や貴族ら名士たちの交流を重厚な筆致で小説化し、フランス政府から芸術分野での功績で芸術文化賞を授与された。30歳までに書かれた以上の二作と幻想的な『一月物語』がロマン主義による三部作である。

高い問題意識と実行力
 その後、作風が変化したのは平野の恣意的な意思による。彼の柔軟な発想やテーマに挑戦する問題意識の高さと実行力が、それを可能にした。様々な思索が明確な理論を結ぶまでじっくり醸成させ、結実をみると一気に行動に移るタイプである。
 『日蝕』は芥川賞選考委員の大半から好意的な評を与えられたが、石原慎太郎だけは、「衒学趣味と擬古文が鼻につき、現代小説にはなじまない」と疑義を呈した。たしかに当時はコマーシャリズムにのって騒がれていた。同じ23歳の『太陽の季節』で同賞を獲得した石原にも、否定的な意見があった。しかし、石原のエネルギッシュな作風に選考委員は期待を寄せたのである。40年余を経た平野の場合も、技量のうまさと清新な若さがファクターとなり、話題性で一番光る『日蝕』に落ちついたといえるだろう。
 文章の構成や響きは、鴎外訳『即興詩人』、辻邦生の『背教者ユリアヌス』、南方熊楠の『十二支考』、塩野七生の『海の都の物語』、アウグスティヌスの『告白録』、ジョン・バニヤンの『天路歴程』などを思わせる。あたかも中世ヨーロッパの宗教論議に踏み込んだかのような読後感が忘れ難い。
 本作は16世紀前半、ルターらの宗教改革が押し迫る直前の、フランス・ドミニコ会派の司祭が主人公ニコラで、研鑚のために遠方のリヨン、フィレンツェへ赴く旅の回想記。ラテン語の異教徒の哲学書『ヘルメス選集』に興味をもつ彼は、自己の周囲の複雑な思想的、哲学的諸相に思念をめぐらす。そこには旧思想のアリストテレス、スコラ哲学のアヴェロエス、ボナヴェントラ、オッカム、トマス・アクィナスの思想や唯名論その他あまたの主義・教義が説かれ、古代の異教・グノーシス派、異端のマニ教、アルビ派、カタリ派などの分派の胚性も盛んで、「放蕩も極端な禁欲も、程度の差こそ在れ、処を選ばずに氾まっていたこの時代特有の病痾の如きもの」であった。ニコラは忌まわしい現今の混迷の元凶を、カトリック教会の堕落と確たる教義の不在にあるとみていた。
 酒と「淫佚 」に溺れる聖職者を「信仰に蒙い」農民たちが敬うはずもなく、ニコラ自身も信奉するトマス主義に不満であった。そして旅先で「峻厳」な「錬金術師」と出会う。ニコラは「不気味な異界」の魔術をあやつる「錬金術師」に圧倒され、次第に錬金術に惹かれてしまい、洞窟内に匿されてきた「冷艶な」「両性具有者」の金色に輝く肉体を発見し「慄然と」するのであった。やがて、疫病と風説がとびかう村に、捕縛された「魔女」を焚刑にする「異端審問官」が現れ、クライマックスを迎える。
 中世ヨーロッパの史実を織り込み、書き言葉を主体にした主人公の独白は、時代的雰囲気を醸し出し、司祭や農民、鍛冶屋、錬金術師らとの短い会話が絶妙である。
 マイナスなのは、第一に読むのが容易でない。難解な用語・語彙が多く、中世ヨーロッパ・カトリックの神学、哲学、思想を、それぞれの経緯とともに描くので、当時の宗教や哲学に関心がないと、聖フランシスコ、聖ドミニクス、教皇インノケンティウス三世、詩篇、出エジプト記などの羅列に退屈してしまう。常用漢字以外の漢字や語彙がやたら並ぶ文章にも、正直閉口する。
 例えば「然るにても私の認めるに、その悴れた面に現れたる所は啻に老醜のみではなかった。嘗ての炯々たる双眸は光を失い、眼窩には陰鬱な翳が挿していた。丁度、使い古された剣の刃が脂膏に曇ってゆくように、幾度となく死が其処に触れ、その跡が染附いてしまったかのようであった」。さらに、脱簡、協(かな)わぬ、軈(やが)て、若干(そこばく)、固(もと)より、峰嶂(ほうしょう)、辺幅、欣(よろこ)び、須臾(しゅゆ)、絡繹(らくえき)、鬱紆(うつう)、遠芳(えんぽう)、的皪(てきれき)などの言葉が続く。

「個人」から「分人」へ
 先輩作家たちの杞憂を一掃し、平野は新しいアイデアとスタイルによる斬新な作品を世に出し続ける。33歳の長篇『決壊』は、読者を一気に増やした社会派小説。この作品の批評には、新書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』の人生論が参考になる。人を従来の個ではなく、対人関係やシチュエーションの変化から複数になるという概念、すなわち、一個人が複数の顔をもつという新しい人間観、「分人」の思想の表明である。
 『決壊』の冒頭に、どこにでもいる会社員沢野良介一家の帰省が描かれている。しかし「…なぜだろう?」との良介の一句は、物語の不穏な暗さや破滅を予感させている。時代の空気を抜群のセンスですくいあげる平野は、この犯罪小説に、「分人」主義のコンセプトによる複数のキャラクターを主人公に合わせた、と雑誌のインタビューで語っている。
 この作品には単純に社会派・犯罪小説と決められない複雑な深さがあるのだ。本音で接することの苦手な沢野夫婦が、正直になれるのは別名で交信し合うネットの世界。緩やかな小説の流れは後半から急変し、良介が何者かに拉致誘拐され、連続「バラバラ死体遺棄事件」と二度の爆弾自爆テロなどで、現代の世相と人間関係が一挙に表面化する。ちなみに『決壊』の約10年前にはオウム事件、5年前には9・11があって、そうした過去の事件の記憶がよみがえる。
 粘着質の比喩が目立つ、饒舌なトークのストーリーは思弁的・哲学的なドストエフスキーの影響があり、安部公房や大江健三郎の文学にも近いだろう。あたかも映像のように切り換わるシーンでは、新しい文体に接していることを実感する。
 この物語の悲劇性は、被害者の家族・遺族そして加害者の家族も追い詰められ瓦解してしまう点にある。虚無的な人生観をもつ沢野崇は弟・良介殺しの有力な容疑者として逮捕されるが、真犯人は別にいた。「汚名」を着せられた崇は、友人から疎まれ父は自殺、母からは「弟殺し」と決めつけられ、惨殺された弟の動画を観せられて精神が「解体」し鉄道自殺をしてしまう。
 陰鬱で衝撃的な内容が問いかけている事柄は多様である。少年犯罪の病理、人間の幸福とは、罪と罰と許し、インターネット時代ゆえの犯罪、メディアの責任と暴力、死刑制度の是非などの論題を、社会に生きている現代人・我々に突き付けているのだ。

SF的な近未来小説も
 『ドーン』はアメリカの宇宙船がテーマ。地球と火星を2年半で往復する宇宙船「ドーン」のストーリーは、近未来を扱いながらも、実質は、時間を超えて人間の生き方を問うオーソドックスな純文学作品である。
 映像化された『マチネの終わり』は、40代男女のラブストーリーのロングセラー。世界的に活躍するギタリスト蒔野聡史とジャーナリスト小峰洋子は、コンサート会場で出会い意気投合。東京、パリ、ニューヨークをめぐる二人のすれ違い、恋の切なさが魅せる。音楽と人生、恋と友情、結婚などの人生模様が描かれ、会話や情景の設定も親しみやすく、理知的な文章でつづられる悲恋の二人はラストで巡り会う。「未来は常に過去を変えているのです」の哲学的フレーズが小説を読み解くキーになっている。
 『ある男』は、死亡した夫は実は別人だという不思議な調査を依頼された弁護士が謎の究明に迫るミステリー。差別に苦しむ「ある男」は、戸籍を取り換えて他人になりすまし人生を生き直しているのだ。人種差別・戸籍問題・死刑制度など、平野の思想を凝縮した本作は各国語に翻訳され、映画化も予定されている。
 昨年発表の『本心』は「分人主義」の思想をより深めたもの。背景は「自由死」が法的に認められた2040年の日本。自由死を望む母が突然の事故で亡くなり、喪失感に苛まれる息子・咲也は、母が尊厳死を望んだ真相に肉薄していく。「僕たちが何でもない日々の生活に耐えられるのは、それを語って聞かせる相手がいるからだ」の示唆とともに、人間の生と死の意義を深く考えされられる物語である。
 平野の「分人主義」を練りこんだ作品群と思想は現代社会に受け入れられている。人生に誠実に対する講演やテレビでのトークも好評で、雑誌連載の小説『空腹を満たしなさい』がNHKでドラマ化され、自作の朗読も試み、「分人主義」のサイトを主宰している。
 最近作は評論『死刑について』。国連は30年前、死刑廃止条約を採択したが、日本は厳罰主義の観点から死刑制度を容認している。死刑制度の功罪を被害者、加害者から検証し、生と死の問題を体験を踏まえて真摯に論究している。
 平野は現在47歳。純文学から始め、恋愛小説、SF、ミステリー、評論、随筆などジャンルを広げ、最年少で三島賞選考委員と芥川賞選考委員に選ばれた。これからも多方面での創造的な活躍を見せてくれるだろう。
(2022年11月10日付 793号)